株式日記と経済展望

ページを繰り越しましたのでホームページからどうぞ。


北朝鮮が自ら引き起こした危機で100万トンもの原油がもらえる。
「そうか、じゃ俺も」という国がこれから出てきてもおかしくない。


2007年2月14日 水曜日

「6か国協議」は「狐と狸の化かし合い」で終わった 6月13日 板垣英憲

◆「6か国協議」は、北朝鮮が核放棄の道筋を示す見返りに「重油100万トン」を支援することで合意文書を採択した。初期には、「5万トン」、段階的に「95万トン」を支援するという。

 江戸時代の盗賊の「隠語」(業界用語)に「急ぎ働き」というのがあるが、今回は、盗賊が、一刻も早く逃げ出そうとする被害者の足元を見て、「恐喝」に及び、まんまと法外な獲物をせしめた構図である。アメリカのヒル国務次官補は、マラソン協議にヘトヘトになっていたので、何でもよいから、ともかく合意に至ったとその場を繕うとしていた。中国は、議長国のメンツを保ちたった。

北朝鮮の代表は、金正日総書記に「お土産」を持って帰らなければ、命が危ないのでなりふり構わず、がんばったというのが、真相であろう。日本も「合意」の仲間入りをして、この場を凌いだようである。時間稼ぎである。

◆合意文書は、破られるために作成され、採択されている。要するに、みんなアリバイ工作のためのみに懸命になったと見ると、実態が明らかになる。そもそも北朝鮮が封印するのは、二ョンビョンの核施設のみであり、その他の施設は、含まれていない。この点にすでに「誤魔化し」がある。北朝鮮は、小出しにして、その都度、値を吊り上げながら、見返りをせしめる作戦なのである。しかも、二ョンビョンの核施設にしても、本当に核施設を封印したかどうかは、確かめようがない。

◆ヒル国務次官補をはじめ、中国、北朝鮮ともに「フリ」をして、世界中を騙しているのである。クソ真面目なのは、韓国だけである。「サル芝居」どころか、いずれ劣らぬ「狐と狸の化かし合い」だった。日本は、ハナから高見の見物である。

 重油の支援に最も積極的なのは、韓国であるから、いっそのこと、全部の支援を韓国に「お任せ」したらよい。

◆安倍首相は13日の衆議院予算委員会で、「拉致問題が解決しない限り、重油支援はしない」と明言しているが、当然のことである。他国が何を言おうとも、この基本原則だけは、絶対に譲ってはならない。いつまでも「カネだけ」をせびられる「大馬鹿ニッポン」は、もうここいら辺で、ご免被ろうではないか。


2007年02月14日(水曜日) 伊藤洋一

つらつら考えるに、今回の6カ国協議における合意の持つもっとも大きな意味合いは、北朝鮮の命運をある意味で握っている中国が「合意の監督者」として参加したことにあると思う。アメリカと北朝鮮の二カ国合意だったら、北朝鮮は前回合意のように「わしゃ知らん」「アメリカが敵視政策をとるからだ」と言い出しかねない。しかし中国が担保者になっている今回の合意は、北朝鮮として「そんなことではなかった」となかなか言えない。

 それにしても、考えればおかしな話です。北朝鮮が自ら引き起こした危機で、100万トンもの原油がもらえる。「そうか。じゃ俺も」という国がこれから出てきてもおかしくない。先日も書いたように、仮にその100万トンの原油を使い切ったら、これと言った輸出品もない北朝鮮はその後どうするのか。また危機を作り出して、「今回もちょうだい」と言うのか。

 これは従来のブッシュ政権の立場とは大きく違う。不法国家に代償は与えないとするのがこれまでの同政権の立場だった。ブッシュはその自らの立場を変えた。これは世界に対する危険なシグナルです。あまり好きな人物ではないが、前の米国連大使のボルトンが次のように言っているのはよく分かる。

《 しかし、合意はジョン・ボルトンから強い批判を招きました(国連への元アメリカの大使)。この人はそれを拒絶するようにブッシュ大統領に要求しました。

彼はそれを「ジェスチャーゲーム」および「くぼんだ協定」と呼びました。

「私はこの取り引きによって非常に妨害されます」とボルトン氏がCNNに伝えました。「それは、自称のproliferatorsに間違った信号を世界中に正確に送ります: 「私たちが持ちこたえる場合、十分に長い、国務省の折衝者を結局すり減らる、報いられます。」行われる必要のあることを単に部分的に行うために、重い燃料油の大量輸送でこの場合。」

彼は、合意が寧辺に厳密に注目しすぎると付け加えました。

「それはほとんど全脅威ではありません」とボルトン氏が、北朝鮮が既に所有する核兵器のストックに関して合意が何も言わないと付け加えて言いました。 》


ニューヨーク・タイムズからの引用です。「charade」というのは、「こっけいな茶番」という意味です。彼が「the agreement focused too narrowly on Yongbyon.」と言っているのも、重要な指摘です。なぜなら、同地以外にも北朝鮮には核施設がかなりあると思われる。IAEAの査察官は、寧辺(ヨンビョン)の核施設以外の各施設についても、査察を実施すべきです。

 私は今回の、どうみても不備だらけの合意が成立した背景は、今の北朝鮮の体制が崩壊することが恐怖の、中国、韓国、ロシア、それにイラクで足を取られているアメリカが「問題の先送り」に出たからだと考える。それこそが問題の本質で、これといった外貨獲得手段のない北朝鮮は、原油を何年間かで使い終えればまた騒ぐ。すでに北朝鮮は六カ国協議の他の5カ国とは合意に関して違うことを国内用に伝えている。「初期段階だけの措置で100万トンの原油を貰える」と。他の5カ国の理解は、「寧辺について必要な措置が始まった段階で5万トンの援助」というものだ。

 日本がイニシャルの5万トンの原油支援に加わらないというのは賢明な立場です。世界も「そりゃそうだろう」と。この立場に文句をいいそうなのは、盧武鉉率いる韓国ぐらい。つながりでニューヨーク・タイムスの関連記事の頭を見たら次のようになっていた。

《 北京、2月13日? 北朝鮮は、アメリカ、中国、韓国およびロシアからの食物、燃料および他の援助のパッケージと交換にその主な原子炉を閉じることに今日合意しました。
取り引きが今日、北京で発表されたとともに、北朝鮮の折衝者は賞賛しました。北朝鮮が核爆弾をテストした4か月後、その突破口(それは集中協議の後に中国の政府によって発表され、「非常に重要な第一歩」としてホワイトハウスによって歓迎された)は起こります。
パートナー国家は、永久にその核施設を不能にし、国へ検査官を許可する過程を始める北部の代わりに援助のおよそ4億ドルの価値の多品種を提供することに合意しました。
(中略)
日本は、日本と北部の間のいくつかの二国間問題が解かれるまでそれが部分をとることができないと言って、北部に包括的援助策を供給することを他の4か国に協力してやることに合意していません。冷戦年にわたる北部による日本人市民の誘拐は、主な問題です。 》


最初から日本は入っていない。そりゃそうでしょう。自国の国民を誘拐・拉致され、その問題が解決しないのに当事国に援助をするなど論外です。古い話ではない。誘拐・拉致された人たちがまだ生きていると思われる、つい最近の話だ。日本が北朝鮮を援助するとしたら、この問題が解決に向かう誘因になる場合だけです。日本として重要なのは、「拉致問題が解決しなればテロ支援国家の指定を解除しない」という日米合意をアメリカが守るように働きかけることです。

 日本が、今の北朝鮮の体制を維持させることに利害関係を持つ4カ国と同一歩調を取る必要性は何もない。


(私のコメント)
昨日の六カ国協議の合意はとんでもないもので、北朝鮮が原子炉を運転したり止めたりし脅かしながら重油などをせしめる事に合意したものだ。重油なら金を出せばいくらでも買えるのに北朝鮮には金がない。北朝鮮はもはや核兵器を開発するという脅ししかない。

北朝鮮がこのような脅しをかけるのも、アメリカにはもはや武力で打って出る恐れがないと足元を見ているからですが、背後では中国が北朝鮮を煽ってアメリカを揺さぶっているのだ。六カ国協議の構図としては中露北韓と日米の対立が見えるのですが、アメリカが弱気になって重油100万トンに合意してしまった。日本はもちろんこの話には乗れない。

日本政府とアメリカ政府とどのような話し合いが行なわれたのかよく分かりませんが、お互いに北朝鮮に対して経済制裁をしていたにもかかわらず、アメリカは制裁を一部解除してテロ支援国の対象からも外そうとしている。これでは94年の米朝合意と大して変わらないのですが、アメリカは再び北朝鮮に騙されるのだろうか?

91年のソ連の崩壊で北朝鮮を援助する国は中国だけとなり、中国も生かさず殺さずといった最低限度の援助しかやっていない。ロシアも中国も援助してくれないとなると北朝鮮としては西側の国から援助をもらうことを考え出した。小泉総理の2002年の訪朝も日本からの援助目当てだったのですが、拉致問題が発覚して薮蛇になってしまった。

アメリカとの関係も偽ドル問題で金融制裁を受けてしまい金正日は窮地に立たされている。米朝の二国間協議で何とか打開を目指したが北朝鮮は核しか切り札がない。中国やロシアに見放されて、日本とアメリカから経済制裁を受けて頼るのは韓国しかないが、韓国は北朝鮮が崩壊すると難民の流入や北朝鮮との統一を受け入れなければならなくなることを恐れている。

私が金正日ならば思い切ってアメリカに歩み寄ってアメリカに白旗を掲げる事で生き残りを図ることを考える。北朝鮮にもアメリカ軍基地を作る事を認めたり、国内の鉱物資源の開発や利権などをアメリカ資本に解放するなど全面的に譲歩して、アメリカの植民地になるぐらいの歩み寄りを見せたらどうだろう。

アメリカとしても中国に国境を接した所にアメリカ軍基地を建設できるのならばメリットはあるはずだ。北朝鮮の復興にはアメリカの建設会社などが請け負うが金は日本に出させればいい。実際の下請け工事は日本や韓国の企業が行なうのだから三方一両得だ。金正日自身はアメリカに亡命してディズニーランドでも楽しんでいればいい。

問題は北朝鮮を誰が統治するかですが、韓国は北朝鮮との統合は本音では望んでいない。しばらくはイラクのようにアメリカ軍が統治して独り立ちするのを待たなければなりませんが、北朝鮮はイラクとは違ってやせた土地と貧しい国民しかいない。

そこまで考えるとアメリカとしては金正日政権を存続させて問題を先送りにしたほうがいいと考えたのかもしれない。ポスト金正日といってもすぐに民主主義政権を作ることは難しい。韓国の場合は日本の統治時代にインフラなども整備されて選挙なども行なわれていたから、日米からの経済援助などもあって政治は安定したが、北朝鮮には独裁的共産主義しか知らない国民ばかりだ。

日本としては金正日政権を倒して民主的な国家になってもらうしか拉致問題を解決する見通しは立たない。しかし問題はどのようにして金正日を倒すかですが、経済的に追い込んでも独裁国家は倒す事が難しい。クーデターなどを起こさせてやればいいのですが、何度も失敗しているようだ。

今回の六カ国協議の本質は先送りであり、曖昧な合意内容は誰も守ろうとはしないだろう。むしろ重油などの援助をちらつかせながら、ぬらりくらりと六カ国会談を続けながら北朝鮮を揺さぶって、どのようにレジュームチェンジさせるか考えるべきだろう。重油の援助をちらつかせないと北朝鮮は会談に出てこないからだ。


韓ニダーの厳しい現実

日:「支援しませんよ」
       ∧,, ∧ ∩
      (`・ω・´)/
ガタンッ! / / θ /i!ii
 ̄ ̄ ⊂ノ ̄T ̄ ̄ ̄


韓:「支援を躊躇ってはイカンニダ」
∧_∧
< `Д´>


日:「韓国が支援するのは止めないよ」
アメ:「支援しないよ」
露:「重油を売ってもいいけど、支払いは?」
                __
                │  |        ,,,,,,,,,,,,,,,,
     ∧,, ∧ ∩    _☆☆☆∩     ミ,,,,,;露;;;,ミ ∩
    (`・ω・´)/     ( ´_⊃`)/      (*`_っ´) /
   / / θ /  ガタッ!/ / θ /i!ii  ガタンッ!/ / θ /i!ii
 ̄⊂ノ ̄T ̄ ̄ ̄ ̄⊂ノ ̄T ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⊂ノ ̄T ̄ ̄


韓:「か、韓国一国で負担はしないニダよ?」
∧_∧
<;`Д´>


日米露:「支援しないよ」
中:「中もしないが、どうするネ?」
              __
              │  |     ,,,,,,,,,,,,,,,,        ∧∧
     ∧,, ∧ ∩  _☆☆☆∩  ミ,,,,,;露;;;,ミ ∩     /支\ ∩
    (`・ω・´)/   ( ´_⊃`)/   (*`_っ´) /     ( `ハ´ ) /
   / / θ /    / / θ /    / / θ / ガタンッ!/ / θ /i!ii
 ̄⊂ノ ̄T ̄ ̄ ̄⊂ノ ̄T ̄ ̄ ̄⊂ノ ̄T ̄ ̄ ̄ ̄⊂ノ ̄T ̄ ̄


韓:「し、支援しないニダ」
 ∧_∧
<;;TДT>





キャリートレードに問題が生じるとするなら、キャリー先(欧米)
においてであって、キャリー元(日本)においてではありません。


2007年2月13日 火曜日

円キャリートレードの何が問題なのかがわかりません。 2月10日 webmaste

円高になるリスクもあれば円安になるリスクもある、なんて話を真剣に取り上げる気になるのも難しいところですが(笑)、それにしてもこの社説子は自家撞着を起こしていることに気がついていないのでしょうか。株式投資についてはキャピタルゲインを上回るほどの為替変動を想定しておきながら、円キャリートレード、つまりはインカムゲインを求めての行動で円安を説明しようとしています。キャピタルゲインが吹き飛ぶほどの円安を投資家が見込んでいるのであれば、円キャリートレードの動機はインカムゲインではなく、円安による為替差益に決まっています。

むしろ円安の動きは、単純な購買力平価で説明可能でしょう。日本は遅々たるものがあるとはいえ、一応はデフレ脱却の道を歩んでいて、つまりは相対変化としてはインフレ率が上昇する方向へ動いています。他方でヨーロッパでは、まだインフレ率がそれほど上昇しているわけではないにもかかわらず引き締めを鮮明にしているわけで、つまりは相対変化としてはインフレ率が下降すると見込まれます。インフレ率が上昇しつつある通貨と下降しつつある通貨との間の為替相場が、前者の下落という形に落ち着くのは、購買力平価の予言するところに他なりません。

#絶対値としてのインフレ率によって為替レイトが定まるというのが購買力平価ですから、上記はミスリードな記述でした。そのような金融政策の方向感から、中長期的な見通しとしての期待インフレ率が逆転しているのだろう、というようにご理解ください。(2/11追記)

そもそも為替相場において警戒すべき変動とは、ファンダメンタルズから乖離した相場がファンダメンタルズへ回帰する際のオーバーシュートであるというのが一般的に言えることでしょう。社説子の論調からすれば、ファンダメンタルズよりも円安に現状の相場が形成されていると理解しているのでしょうから、「円からの資金逃避が加速しかねない」なんていう妄言は、聞き流す以外にどうしろというのでしょう(笑)。

では円高へのオーバーシュートがあり得るのかといえば、先の購買力平価を援用すれば、まだデフレから脱却していないというのに再度デフレを深化させかねないようなことがその契機となり得るでしょう。既述のインフレ率の相対関係が逆転し、投資家の円安見通しに基づく円ポジションは一斉に解消されるでしょうから、そのようなことは避けねばなりません‐皮肉なことに、社説子の心配とは逆に、日銀がファンダメンタルズを無視して引き締めに走ることが最大のリスクということになります。

産経社説を離れてキャリートレードに問題があり得るかを考えるならば、過去にキャリートレードが引き起こした問題を見てみるのが早道でしょう。典型的にはアジア通貨危機ですが、東南アジア諸国につぎ込まれていた短期資金の引上げに際して、返済に必要な外貨(つまりはドル)がショートしたことが原因です。問題が生じるとするなら、あくまでキャリー先(の流動性)においてであって、キャリー元においてではありません。

常識的に考えても、今まで借りていたお金を急に返せと言われて困ることはあっても、今まで貸していたお金をもういりませんと言われて困ることがあるでしょうか? 仮に円キャリートレードに巻き戻しが生じるとしても、その際に困らないように対処すべきなのはあくまでキャリー先なのです。もしユーロがECBの金融政策の結果としてファンダメンタルズ以上に高い相場を形成しているとすれば、アジアに限らず通貨危機でよく見られるように、売り浴びせ→外貨不足による暴落、というリスクに瀕している可能性があります。そう、事態は円安リスクではなくユーロ高リスクである可能性の方が大きいですし、リスクが顕在化した場合の影響もまたそうであるのです。


長期金利の上昇が一服、G7契機の利上げ警戒薄れる 2月8日 ロイター

欧米が緩和的な金融政策を修正する中で、日本だけが超低金利政策を継続。為替市場では円がいったん独歩安の様相を強めたことから、G7を控えて、欧州から円安に対するけん制発言が相次いだ。
 円債市場にとって、G7は円安の取り扱いが最大のテーマだ。「円安是正のための利上げシナリオが相場のリスク要因」(邦銀)といい、週初から2月利上げ観測が相場の上値を抑制した。6日には10年最長期国債利回り(長期金利)が1.750%と、日銀が利上げを見送った1月金融政策決定会合前の1月16日以来の水準に上昇した。
 もっとも市場では「為替に関する声明文に大きな変化はないというのがコンセンサス」(リーマン・ブラザーズ証券・チーフJGBストラテジストの山下周氏)になりつつある。為替レートは経済ファンダメンタルズを反映すべきとした基本理念に照らし合わせた場合、米欧景気の堅調さと日本の国内需要の低迷を考えれば、円安が正当化される面があるためだ。
 ポールソン米財務次官は6日の米下院歳入委員会での質疑応答で「現在の取引水準を好まない向きもあるかもしれないが、自由で競争的な市場を支持しつつ、そのために戦うのが私の責務。円は基調的な経済ファンダメンタルズに基づき、競争的市場で取引されていると確信している」などと発言。欧州からの発言とは距離を置いた。
 日銀は、物価と消費関連指標の下振れを理由に12月と1月に追加利上げを見送った。足元の景気指標は依然として強さは見えず、さらにフォワードルッキングな金融政策に基づいた金利正常化という利上げロジックにもほころびが見え始めている。政治的な圧力が強まる中で、早期利上げに向けて日銀に残された道は「外圧の力を用いて政府を説き伏せるしかないのではないか」(邦銀)との声も出ていた。


(私のコメント)
最近のユーロの独歩高でEU諸国は音を上げているようですが、それでも金利を上げるスタンスです。金利を上げればますますユーロは高くなるわけですが、普通だったらユーロ金利を下げてユーロ安に誘導するところだ。しかしユーロはスペインなどを中心にバブル経済であり景気は引き締めスタンスでないとバブルはますます拡大してしまう。しかし輸出産業の多いドイツなどではユーロ高で悲鳴を上げている。

最近の特徴としては円とドルとが連動して動く事ですが、アメリカのヘッジファンドとしてはまことに都合がいい。単なる金利差だけでキャリートレードするのは為替が動けば儲けがふいになる事がありますが、円とドルとが連動して動いて金利差があれば安心してトレーディングが出来る。

日米にとっては都合がいいのですがEUにとっては円安で安い日本の商品が入ってくるから日銀に対して金利を上げろと圧力をかけている。日本が景気が良くてインフレ気味なら金利を上げて調整するところですが、日本はデフレ経済で消費は低迷している。景気指標も良くはない。

日銀の福井総裁としては金利を上げたいところですが、日本経済のファンダメンタルズは依然として悪く、利上げを出来る状況にはない。経団連が奮発して春闘などで大幅な賃上げを認めれば景気は好転するだろうが、経団連は国際競争を理由に大幅な賃上げは認めないだろう。

もし円安傾向が続くならば経団連も賃上げしても利益は円安でカバーできるから賃上げが出来るだろう。賃上げが出来ればその分が消費に回って景気が回復して利上げも出来る環境が出来る。このように為替相場と国内景気とは深い関係があり、90年代からの超円高と超低金利はドル安とアメリカの好景気とはセットで続いていた。

80年代はレーガンのドル高政策でアメリカは不況が続き日本はバブル経済で経済は好調だった。ところが90年代になってクリントンのドル安円高政策でアメリカは好景気になり日本は15年も不況が続いている。つまり通貨が安くなれば国内はインフレ気味となり株も土地も上がり労働者の賃金も上げやすいから好景気になる。ところが日本は円高がずっと続いている。

ところが2000年にユーロが誕生して、円に代わるドルの逃避先ができて、円は100円を超える事はなくなって落ち着いた動きをするようになった。まさにユーロ様様なのですが、円がドルと連動する事でユーロに対して大幅な円安でも摩擦が少なくなった。ようやく90年代から続いた超円高の重圧から解放されて日本企業も業績が回復してきた。

円が現在の水準で落ち着くならば日本企業の業績も回復して賃金も上がって消費も上がっていけるようになるだろう。消費が回復すれば金利も上がりデフレが解消してインフレ気味になり国内投資も活性化するだろう。だから日銀は利上げはまだ少し先に延ばすべきで春闘の状況を見極めるべきだ。

2月に無理をして金利を上げれば円高が復活して経団連はまた国際競争を理由に賃上げはなくなり消費が低迷するだろう。基本的にいえば経済のファンダメンタルズが悪いところは通貨は安くなり、良いところは高くなる。だから現在の円安は当然なのです。ところが円安で他のアジア諸国は競争力が衰えて困るかもしれない。韓国の自動車などはアメリカで売れなくなる。

円キャリートレードについては2月8日にも書きましたが、ヘッジファンドが円キャリートレードで日本から資金を調達して世界に投資している。だから日本が不景気なのに世界経済は好調だ。ところが日銀が大幅に金利を一気に引き上げたら世界経済はショック死を起こすだろう。それだけ日銀は世界経済に大きな責任を持つようになったのです。増田俊男氏は次のように指摘している。


魔の1月18日(日銀金融政策決定会合) 2月9日 増田俊男

経済は軍事のようにはいかない。強いものがいつも強いとは限らず、また世界経済の主導権も常に交代する。ここのところ、日本以外の先進国の経済は、ちょうど1980年代後半の日本経済と同様な状況にある。10年間世界経済は供給過剰下での国際競争激化で貿易財価格が低く抑えられたことが消費者物価に影響し、先進国は総じて低インフレ、低金利となった。ところが一方、世界的な過剰流動性は商品市場に流れて資源、原材料価格の高騰を起こし、資産価格、特に株式と不動産価格を押し上げている。低インフレ下の資産価格高騰は、まさに1998年前後の日本経済バブル前夜である。

今、アメリカのやや加熱気味の好況は住宅価格の適度な下落で調整され、利上げも利下げも必要がなく、また3−4%という高くもなければ低くもないGDP成長を持続している。金融政策は不変で、順当に好況を維持するアメリカ経済にさしあたりリスクは見当たらない。当然のこととして、株価は新記録を更新している。しかしながら、こうした良過ぎるほどのアメリカ経済にこそ「漠然とした不安」が芽生えやすい。

今、アメリカ経済は「手探り」状態になっている。1990年の初め、日本経済はかつて経験したことのないバブルに突入、そして「手探り」の三重野日銀総裁による「失策」。その経緯についての説明はいまさら不要だろう。現在、世界の先進国が注目しているのはFRB(米連邦準備制度理事会)バーナンキ議長ではなく、日銀の福井総裁である。それは日銀のみがかつて世紀のバブルの舵取りをして失敗した経験を持つからである。今、世界の先進国はかつてと同様のバブル前夜の「漠然たる不安」の中にある。世界が日本の日銀の次なる動きを見守るのは当然なのである。

果たして、日銀にこの認識があるのだろうか。1月18日の金融政策決定会合で利上げを見送ったのは、政治圧力に屈したからと言われても弁解できないだろう。日銀は市場の信頼を損ね、民間資金は金利の高いアメリカに流出し、さらにキャリートレードで国際ファンドは円の借り入れを増すから、円はどの国際通貨に対しても安くなった。1月18日の時点では、「アメリカは利下げの可能性、日本は利上げの可能性」で為替市場は「円高、ドル安」のトレンドにあった。また円高を機に、日本の輸出企業は外需依存度を落とし内需拡大策を採ろうとしていた。日本経済が外需依存から内需依存に転じれば、今までのような国民の実感なき好況から実感の持てる好況に変わる。日本経済が内需依存に、アメリカ経済が外需依存に転じると、世界経済の主導権が日本に移る。

1月18日はこうした世界からの期待と日本経済好況の構造的転換、さらには世界経済の主導権の日本への移行という最重要な転機となる日であった。日銀が失った市場の信頼は容易に取り戻せない。円安、日本の株価のみ低迷……すべては福井日銀の責任である。「日銀の独立性」とは、時の政府ではなく、「市場との対話」を重要視することである。いま2月の利上げのファンダメンタル上の理由がなくなりつつある。利上げをすれば不合理、またしなければさらに市場の信頼を失う。自ら四面楚歌の状況を作った福井総裁は、かつての三重野総裁に劣らず「軽い」。


(私のコメント)
日銀の福井総裁は「株式日記」を読んで適切な判断をして欲しいと思うのですが、春闘の賃上げがなければ消費は回復せず景気は回復しない。今のところ輸出企業が業績がいいが、賃上げが国内産業にも影響を与えてくるまで注意深く見定めなければならない。しかし日銀が利上げをすれば円高となりキャリートレードが逆流して世界経済に大きな影響を与える事になる。




「日本」の「マスコミ」は、「左巻き」や、「売国工作員」に制圧
されてしまい、「反日偏向捏造報道」を繰り返しています。


2007年2月12日 月曜日

「ネット」VS「既存のマスコミ」は、「ネット」の大勝利で幕を閉じ、「報道」は新時代に突入する 2月10日 日本史から見た最新ニュース

「民主主義」を守る為には、「マスコミ」の力が不可欠です。

しかし、「日本」の「マスコミ」は、「左巻き」や、「売国工作員」や、「在日特定アジア人(スポンサーを含めて)」たちなどに制圧されてしまい、「反日偏向捏造報道」を繰り返しています。

その結果として、「国民」たちは、本来ならば享受できたはずの「公共サービス」を削られ、多くの「財産」や、「生命」を奪われ、御先祖様たちを含めた「日本人」としての「尊厳」や、「名誉」を傷付けられ続けてきました。

そんな「マスコミ」のあり方と、それを容認する、腐敗した「戦後日本」に対して、反旗を翻したのが、「ネットユーザー」たちです。

「ネット」VS「既存のマスコミ」

この戦いは、「DVD」の規格を巡る戦いなどとは比べようが無いくらいに、重要で、大規模なものとなります。

「ネット」VS「既存のマスコミ」の戦いは、

「新しい・正常・双方向」VS「古い・異常・押し付け」

のぶつかり合いでもあります。

そのことを全く理解できずに「古い・異常・押し付け」という「既存マスコミの価値観」を「ネット」にそのまま持ち込んで「大失敗」したのが「オーマイニュース」です。

「古い・異常・押し付け」が売りの「既存のマスコミ」は、最近も、「核」や、「産む機械」発言を巡って、本当に「薄汚い」偏向報道を行いました。

そんな「既存マスコミ(野党)」の腐りきった「報道姿勢」について、「ネットユーザー」たちは、一斉に非難の声を上げ、彼らの主張は次々と論破されていきました。

「既存マスコミ」たちの「嘘」は直ぐに論破される時代がやって来たのです。

しかし、残念ながら「ネットユーザー」たちの声が「世論」に与える影響は、「既存マスコミ」たちの声と比べると、本当に微々たるものでしかありません。

「東京(全国ネット)」の「マスコミ」は、「菅直人」発言や、「民主党と朝鮮総連の真っ黒な繋がり」や、「小沢10億円問題」を、「自民党」の問題と比べると、10分の1も報じていません。

「公平」「公正」「公共性」が欠如した「マスコミ」たち。

彼らの「絶対的な力」の前に「国民」たちは無力なのか。

この間の「選挙」の結果や、「世論調査」などを見ると、そのような感じがしていたのですが、「スポーツ報知」の記事を読むと、「意外な所」に「ネットユーザー」たちの行動の成果が現れているようです。

〜〜〜
(スポーツ報知より)

菅代表代行も失言「東京は子供の生産性低い」 

今度は民主党の菅直人代表代行(60)に“失言”問題が浮上した。菅氏は、街頭演説や地方紙のインタビューなどで「東京は生産性が高いと言われるが、子どもの生産性が最も低い」などと発言していたことが判明。しかし、7日の会見では「表現が一字一句どうなっていたか言葉じりまでは覚えていない」などと歯切れの悪い説明に終始した。「女は産む機械」発言の柳沢伯夫厚労相(71)に強く辞任を要求していた菅氏だが、年金未納騒動の時と同様、またしても“ブーメラン”が返ってきた形だ。

 最初に“ブーメラン”を投げ返したのは、自民党の中川秀直幹事長(63)だった。

 中川氏は6日、自身の公式サイトで柳沢発言を追及する野党に対し「そんなに『ことば狩り』がしたいなら、一つの題材を与えよう」と切り出し、1月の民主党大会で菅氏が「東京は日本で一番生産性の低い大都市。何の生産性か、それは子どもの出生率において…」などと発言していると指摘。「出生率と生産性を結びつけるということは、出産と機械が結びつくことではないのか」「こんな『ことば狩り』はもうやめようではないか」と痛み分けによる“停戦”を提案した。

 菅氏は、1月の愛知県知事選の応援演説でも「愛知や東京は生産性が高いと言われるが、子どもを産む生産性が最も低い」などと発言。昨年8月の地方紙のインタビューでも同様の発言をしていたことが分かっている。

 菅氏は党代表を務めていた04年、国民年金未納の自民党議員を「未納3兄弟」などと批判していたが、その後、自身の未払い疑惑が浮上(後に社会保険庁の過失と判明)し、代表を辞任している。

 永田町では、民主党の“ブーメラン伝説”は広く知られている。自民党のスキャンダルを攻撃すると、必ず同様の問題で民主党にも攻撃が返ってくる。最近では、事務所費問題で民主党にブーメランが返ってきた。

 またしても思わぬブーメランを食らった菅氏だが、7日の会見では、これらの発言についての質問が出ると「12月の衆院本会議で同様の趣旨の発言をしているので議事録を読んでください」とやや的外れな回答。「柳沢氏の発言と結びつけられてもおかしくないのではないか」との質問にも「議事録をよく読んでみてください」と繰り返すだけだった。

 さらに、愛知県知事選での応援演説については「その時の表現が一字一句どうだったか言葉じりまでは覚えていない」と言う始末。最後にようやく「生産性のいい景気のいい地域では、出生率の点では低いところが多いと申し上げた」と説明したが、菅氏の「生産性発言」が今後の国会審議で問題となる可能性もありそうだ。

〜〜〜

>ブーメラン伝説

は、他にも「産経新聞」が使用していましたが(菅発言については、地方のテレビ局はかなり大きく扱っていたようです)、このような流れを見ると、「ネットユーザー」たちの声は、「国民」たちに対してよりも、「既存のマスコミ内部」の人たちに対して、より大きな影響力を持っていることがわかります。

「ネット」の影響力はこれから更に増していきます。それも猛烈な勢いで。

「日本」の「報道」は新時代に突入します。

そのことを理解していない「NHK」、「TBS」、「朝日新聞」、「毎日新聞」などの「古い・異常・押し付け」が売りの「既存のマスコミ」絶対に「没落」します。

「日本」を「売国奴」や、「敵国」から守る為に「国民」たちが為すべきことは、「ネット」を通じて、

「即座に・徹底的に・諦めずに声を上げ続ける」ことです。


「報道」という概念を180度転回しないと「日本」は再生できない 2月1日 日本史から見た最新ニュース

いまの「日本」に「世論」はありません。「マスコミ」が発表する「世論調査」とは、「マスコミの思想に基づいた偏向・印象操作報道によって生れた、刷り込まれた世論」であって、それは「世論」ではなく、「マスコミの考え」です。

最近、行われた最も酷い「偏向・印象操作報道」は、「産む機械」発言を巡る問題です。一連の「偏向・印象操作報道」によって、「柳沢大臣」が辞任に追い込まれる可能性が高まってきました。

そのことによって「隠蔽」、「消滅」してしまったのが、

「予算の議論をしない予算委員会」、「民主党と朝鮮総連の真っ黒な関係」、「事務所費用」、「教育改革」、「憲法」などの問題です。

このような、いまの「日本」にとっても、未来の「日本」にとっても非常に重要な問題を報道せずに、

「産む機械発言」や、「バラバラ殺人」や、「犬の飼い主が決定」などという出来事を長々と垂れ流しているのが、いまの「日本の馬鹿マスコミ」の実態なのです。

そのことは、冷静になって考えれば、誰にでもわかることなのですが、「マスコミ」は、「冷静さ」と、「思考能力」を奪う様々な「工作」(音楽や、字幕や、コメンテーターや、構成など)を用いて、「国民」たちを「思考奴隷化」しようとしてきますから、彼らの「報道」に対しては、真正面から向き合わず、「斜に構えている」ことが大切です。


(私のコメント)
今までの世界ではマスコミを批判する事ができるメディアがありませんでしたが、現在ではネットがマスコミを批判するメディアとして育ってきました。今まではマスコミさえ押さえれば世論工作は思いのままに出来たのですが、マスコミがおかしな報道をすればたちどころにネットで集中砲火を浴びる事になります。

ネットの力は今でも世論に与える影響度は微々たるものですが、マスコミに与える影響度は破壊的な力を持ち始めてきた。現在のマスコミは「左巻き」や「特定アジア工作員」や「カルト宗教洗脳工作員」の巣窟でしたが、ネットによって、そのような実態が次々と暴かれだしてきた。

テレビほど国民を洗脳するには強力な武器はなく、洗脳の洗礼に晒されない為にはテレビを見ないことですが、テレビはあらゆる家庭に普及してしまって生活に欠かせないものとなってしまった。テレビは正しく利用すれば文明の利器となり文化生活を向上されるものですが、現在ではバラエティー番組ばかりになって国民総白痴化が進んでしまった。

報道番組でも「左巻き」や「特定アジア工作員」や「洗脳カルト教団」などの勢力が浸透している。日本のテレビ局はどれも新聞社の系列に属しているからその影響だろう。だからテレビを見るときはそのフィルターを通して見たほうがいい。しかしネットがなかった時代にはその存在に気がつくフィルターが無かったのだ。

現在では朝日や毎日系列の左翼マスコミがネットの集中砲火を浴びていますが、ネット世代はは左翼マスコミの押し付けがましい価値観に拒否反応を示している。だから左翼マスコミが焦れば焦るほどネットの反撃も厳しくなるから、言論勢力としての力は衰えてきている。

なぜネットがこのように右翼化するのかと言うと既成のマスコミが左翼の巣窟であるからだ。左翼と特定アジアの工作員が結びついて洗脳報道を繰り返してきた。特に従軍慰安婦や南京大虐殺などのでっち上げ報道は彼らの目玉でしたが、ネットに論破されてでっち上げ報道である事がはっきりした。

それよりも最近浮かび上がってきているのは、洗脳カルト教団と国際金融資本の勢力だ。これらの勢力は左翼や特定アジアと違って活動が露骨でないから注意しないとよく分からない。彼らは資金力が豊富でコマーシャルなどのスポンサーとして大きな影響力を行使している。

テレビの有名バラエティ番組のタレントが洗脳カルト教団の会員であることがネットなどで暴露されていますが、有名芸能人を取り込むことで若い人たちを洗脳して信者を増やす事に成功している。そして洗脳カルト教団のスキャンダルはテレビや新聞ではまったくといっていいほど報道されない。

国際金融資本も豊富な資金力でスポンサーを通じてテレビを動かし力を持っていますが、その威力を見せ付けたのは小泉内閣の郵政民営化法案の衆院選挙だ。国際的な広告代理店や選挙コンサルティング会社を動員しての大規模な洗脳作戦は見事なもので、自民党の大勝利をもたらした。

テレビコマーシャルは人間の心理を研究し尽くした洗脳手段であり、何度も繰り返して見る事によりパブロフの犬のように条件反射的に動くようになってしまう。なぜ若い人たちはあんなに不味いハンバーガーを食べ、癖のある味のコカコーラを飲むのだろうか? そして焼け焦げたような豆の味のするコーヒーを飲む。

「あるある大辞典」と言う番組で納豆がダイエットの効くと放送されるとスーパーの納豆が売り切れた。テレビで放送したからという洗脳効果でこのような事件が起きる。同じような方法でワイドショーなどでキャンペーンを張れば小泉チルドレン達は83人も当選した。

今のところ「株式日記」でこのような事を警告しても大衆の目を覚まさせるところまで行ってはいないが、気がついた人は増え続けている。テレビの洗脳にかからないためにはネットから絶えず洗脳を解く情報を手に入れることだ。左翼や特定アジアの洗脳は解けつつあるが、洗脳カルト教団や国際金融資本の洗脳は巧みであり、彼らもネットで工作員を使っており、小泉信者達は彼らの手先なのだ。


朝日とTBSはこのように世論をコントロールしていく

なんで自民の事務所経費問題ばかり
とりあげて小沢代表の問題は取り上げないの?
     ∧_∧       ∧テ∧ ∧T∧
    ( 現実)      (-@ロ@)( `(・・)´)スルースルーッ
  三 (  つ つ    三(つ 朝,ノつ 豚S,ノつ
  三 人 ヽノ    三/ ゝ 〉 ./ ゝ 〉
   (__(__)     (_(__)(_(__)

                   どーして柳沢発言の言葉尻ばかり取上げて
                   角田議員の総連関連からの献金問題を取上げないの?
         スルースルーッ!
               .∧テ∧ ∧T ∧     ∧_∧
               (@ロ ⊂)(`(・・⊂)  三現実  )
              ⊂ 朝 ⊂ 豚Sノ  三G(   こつ
                人  Y 人  Y    三(_,\ \
               し (_フし (_フ       三___)

新たに近藤議員の総連関係の
献金問題発覚してるけど        総連と関係のある民主党に
  どういうこと?             肩入れした報道って何か意図でもあるの?
              スルースルー
       ∧_∧   .....,,.. ...   ....,,. ...     ∧_∧
       ( 現実)  ::∧テ∧:::::∧T ∧:: ⊂(現実 ,)
      (  つつ   :( ∩ ∩ ):( ∩ ∩ ).    \⊂  )
      / / /   ::(´ ノ ノ:::(´ ノ ノ::     ( (  |
      (_)_)   ::( ̄__)__)( ̄__)__)::     し(_)





『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』 バブル崩壊の引き金
となった大蔵省通達、いわゆる総量規制を止めるコメディー映画


2007年2月11日 日曜日

『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』90点 超映画批評

この映画は「期待せずに見たら大当たり」という典型例のような作品であった。

とうとう破綻のときを迎えた日本経済を救うため、ある 財務官僚(阿部寛)はタイムマシンでその発明者(薬師丸ひろ子)を1990年に送り込むことを決めた。バブル崩壊の引き金となった大蔵省通達、いわゆる総量規制を止めるためだ──というあらすじ自体は、なかなか面白そうと思ったものの、日立製作所とのタイアップによる「ドラム型洗濯機タイプのタイムマシン」などというバカげた設定をみて、どうせろくでもないバカ映画だろうと、高をくくっていたのだ。

むろん、上記ストーリーから一瞬連想するような社会派SF、すなわち経済問題等を過去からシミュレーションする知的な作品なんぞを期待してはダメだが、タイムスリップをネタにしたコメディとして見れば、すこぶる出来のよい一本であった。

物語は、過去に出向いた発明者からの連絡が途絶え、やむなくその娘(広末涼子)を二人目のエージェントとして送り込むところから俄然面白くなる。経済のけの字もわからぬ借金漬けのキャバ嬢である彼女が、なぜ日本の運命を背負う大作戦に抜擢されるのか。そのあたりもまた爆笑ものなのでご注目。

ともあれバブル時代に乗り込んだヒロスエさんは、あまりに2007年と違うその光景に唖然呆然。きっと観客の多くも同じ思いをもつだろう。面白いのは、これがわずか17年前のこの国の風景であり、当時を実際に体験したはずの私でも、彼女と同じ感想を持ったということだ。日本は短期間で大きく変わった。バブル崩壊はそれほどの一大転機であったのだと、いまさらながら実感させられる。

よくできたセットやCGで表現される当時の風景、風俗は、どれも30代以上の人ならば「ああ、いたいたこういうヤツ」「オレも似たようなことをやった」と思えるものばかり。たとえば昔の写真を見たとき、いくら流行っていたとはいえ、どうしてあんなみっともない髪型にしていたんだろうと気恥ずかしくなる事がよくあるが、この映画の楽しさはそれに似ている。

極太眉毛にソバージュ&ボディコンで扇子を振り回すなんてファッションを、なぜ誰も恥ずかしいと思わなかったのか。まったくもって不明だ。あのころのディスコでは、そんな女の子のパンツを見上げながら男たちはカクテルを飲んでいた。

これほどの時代ギャップが、わずか17年前という近場に存在したことに目をつけたこの映画の企画スタッフは凄い。しかもそれを最大限に利用した興味深いシナリオには、つぼをはずさぬ笑いが数え切れぬほど盛り込んである。さすがはあの時代、スキー場にユーミンを広めるなど数々のバブル文化を仕掛けたホイチョイ・プロダクションズだ。自分らの得意とするフィールドで勝負しているだけのことはある。

しかも痛快なのは、彼らがそんな自分たちのやったコト、消費至上主義を日本に蔓延させたことを、これっぽっちも反省せず、堂々と肯定しているということだ。この映画に彼らは、近年流行っている格差社会への批判とか、そういうありきたりなテーマを盛り込まなかった。このストーリーを、それをやらずに仕上げた勇気は大いにほめるべき点だ。この作品のラストシーンのこの上ない気分のよさはそんな彼らの潔さから生まれている。

潔いといえば、そもそも日本人、それも当時都市部に住んでいた30代〜40代あたりのごく狭いマーケットの人しか楽しめないであろうこんな企画を、本気で作ってしまうというあたりもそうだ。日本専用、30代専用、じつに結構ではないか。映画祭やら海外進出ばかりが能じゃない。

阿部寛はもちろんだが、広末涼子の名コメディエンヌぶりも大きな収穫であった。競泳用水着を着るといまでも高校生のように見える彼女には、こういう役がよく似合う。子供を産んでも健在なあのかわいらしい口元と声、まさに、MAJIでKOIしそうになってしまうというものだ。

リンドバーグやらプリプリといった、当時を懐かしむことができる年代の人限定ではあるが、当てはまる人には今週はぜひこれを見てほしいと思う。楽しくて明るくて、思いっきり爽快な映画。鑑賞後の気分も最高だ。



バブルが弾ける原因  2ちゃんねる

◆10 名前: 金持ち名無しさん、投稿日: 2001/04/28(土) 03:30

株・・・ワラント債や株式転換債を大量に出す一方で、持合い株の強化を行って需給悪化を招いた。またテクニカル的に見て限界であったなど。

不動産・・・総量規制、地価税の導入による負担増など。 そして、株、不動産などの価格下落の原因による会社業績の悪化など 複合的原因が重なりバブルが崩壊した。 あとは、ご存知のとうり不良債権が雪ダルマしきに増加。ただ、いろいろな説があって一概には言えるものではない。

◆13 名前:      投稿日: 2001/04/28(土) 09:31

久米などのアホなサヨクが真面目なサラリーマンが家が買えなくて 不公平だなどと訳のわからん煽りをしまくった挙句に政府がバブル 潰しました、真面目なサラリーマンは賃下げリストラと先行き不安 から相変わらず家は買えてません、サヨってホントにばか。

◆41 名前: 経済学の鉄人投稿日: 2001/04/30(月) 02:44

中身のない急激な資産上昇はいずれ調整に入る。景気が過熱しているのに何時までも過剰流動性(2ちゃん用語で言うと,「金余り」ね)を放置しているわけにはいかないだろ。バブルが崩壊した直接の原因は,89年から90年にかけての金利の引き上げ(2.5%→6.0%)や不動産融資に対する総量規制だが,膨れた風船はいずれ破裂する運命だ。金利の引き上げなんかの政策を批判してもしょうがないのだ。

バブルが発生した原因は,景気拡大局面に入ったにもかかわらず,日銀が過剰流動性(お金がじゃぶじゃぶ)を放置したことにある。87年からの,公定歩合2.5%という低金利に加え,大企業が直接金融に移行したことやワラントを利用した海外での資金調達などによって資金需要が減少したことで,急激な金余りが生じた。このような状況下で,日銀が適切な引き締め政策(お金を少し減らしましょう,じゃぶじゃぶはダメよ政策)を行わなかったことがバブル発生の直接の原因だ。この余った金で企業や個人がめちゃくちゃに株や土地を買ったわけよ。一方で,銀行は借り手がいなくて困っていたから,喜んで土地を担保に金を貸したというわけ。

ではなぜ適切な引き締め政策を行わなかったのか?日銀の政策判断の甘さというのもあるだろうが,一番 の原因は,87年のブラック・マンデー(月曜日に,ニューヨークの株が暴落したよん)によるアメリカからの急激なドル流出・ドルの暴落を止めるため,金利を安く据え置くようアメリカから圧力がかかったということだ。


(私のコメント)
バブルの発生と崩壊については大蔵省と日銀の金融政策のミスによるものですが、「失われた15年」の原因についての究明がよくなされず、対応策については試行錯誤が続いている。もし短期間に不況を収束させたいのならば「徳政令」的な政策が効果的だと思うのですが、左翼マスコミがモラルハザードだと騒ぎ立てるから問題が長期化している。

株式日記では銀行が抱えた不良債権を簿価で買い取ってしまえば問題は解決すると書いてきましたが、リチャード・クー氏のバランスシート不況説も長期化している原因の一つだろう。バランスシート不況を短期に解決するには株や土地を元にまで戻せば解決しますが、株式日記では公的資金で株や土地を買い捲れと書いてきました。

論理としては乱暴な論理ですが長期化している不況を短期に解決するにはそれしかない。しかしそうしようとすれば馬鹿マスコミが騒ぎ立てて潰してしまう。陰謀論的に言えば国際金融資本が日本の資産を安く買い叩く為に行っている事なのだろうから、ハゲタカたちが満腹するまで日本の不況は続く。

しかしそのような事が日本のミーハーレベルの人たちまで分かり始めてきたから、その苛立ちが『バブルへGO!! 』といった映画に現われはじめてきている。バブルが崩壊して17年も経つのだから今の若い人たちは日本の好景気だった頃の事を知らない。当時はOLでも100万円以上のボーナスをもらう人がいた。

私も80年代に都内にビルを建てていましたが型枠工や鉄筋工の手配が付かないくらいに景気が過熱していたにもかかわらず政府日銀は景気を引き締めようとしなかった。当時すでに東南アジアや中国などから安い物が入ってきたから資産インフレでも一般物価は上がっていなかったからだ。

現在は日本を除く世界各地がバブル状態なのですが、それは円キャリートレードが原因になっている面がある。80年代のバブルも金利の安いスイスからスイスフランキャリートレードが行なわれて日本のファンドマネージャーが土地や株を買いあさった。

現在は財テクに踊った企業も住宅ローンを借りた個人も一生懸命借金を返している状況であり、政府や日銀の金融政策が効く状況ではない。このようになったのも政府日銀が土地や株の乱高下をよく見ずに放置した事に原因があり、土地や株などの資産は政府や中央銀行が監視して乱高下は防止しなければならない。

日本が再び経済成長するには企業や個人の借金の清算がついて気持ちが前向きになって、借金をしても大丈夫と言う状況にならないと無理だろう。だから景気が本格的に回復するのはあと5年か10年かかる。輸出企業などは元気になり始めましたが、やがて国内産業も元気になり、個人も金を使い出すだろう。

私はこの映画はまだ見てはいないのですが、15年も続いた不況は早く何とかして欲しいという気持ちがこの映画に現れていると思う。その点では大蔵省と日銀は反省して欲しいものだ。しかし現在の日本の財務省はアメリカの出先機関のようになってしまい経済政策はアメリカからコントロールされているようだ。


アメリカにしても中国にしてもバブルである事は自ら認識している。だから必死になってバブルの崩壊を防いでいるのですが、日本の悲惨な状況を見て知っているからだ。しかし日本の政府やマスコミなどはバブルを潰したらどうなるか認識していなかったようだ。バブルを潰す為に税制まで改正したがそれが景気が回復しない原因の一つにもなっている。




中国は30年経ってもなぜ自律的な経済発展が行なわれず
一にも二にも外資の導入と輸出依存の経済体制のままなのか


2007年2月10日 土曜日

グローバル化の過程における中国の代償及びその問題 袁剣

【大紀元日本10月12日】 編集者注:WTOに加盟して4年が経過し、中国がグローバル化に融合するプロセスが全速で推進され、“中国の脅威”、“中国の世紀”という驚きの声が上がる中で、中国がグローバル化の巨大な受益者としてのイメージもまた、より顕著なものとなっている。しかし、果たして、事実は疑う余地のないほどに確かなものなのだろうか?

 2005年12月、中国の独立経済評論家、北京大軍経済観察研究センター特約研究員・袁剣は、評論「グローバル化の過程における中国の代償及びその問題---グローバル化における大国の迷路」の中、中国はグローバル化の時代に、経済競争において競争上の優位を得るため、ネガチィブな方法―底辺競争(race to the bottom)、いわゆるどん底へと突き進む競争方法を取っているという観点を紹介した。すなわち、誰がより劣悪で、より自国の労働階層を虐待し、自国の環境破壊をより我慢する、人類文明の底辺に向かって退化する可能性を持っているかということである。

 袁氏によると、このような自国の労働階層から各種の労働保障を剥奪し、彼らの給与を人為的に引き下げ、自然環境への損害を放任し、競争における価格面での優位を得るという底辺競争の手段で獲得した、いわゆる競争力にあるものは、民族道徳の野蛮な状態への回帰である。

 袁氏の評論は発表後、中国ではインターネットで広く流布され、読者から2006年最良の経済論評文との賞賛を得た。ここでこの論評を全訳して、日本の読者に紹介する。

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情報技術革命の強大な浸透力、及び“歴史の終わり”の普遍的イメージにより、前世紀末期におけるグローバル化の潮流は、巨大な原動力を獲得したが、その距離をものともしない拡散性を、前世紀初期におけるグローバル化と同じように論じることはできない。

そこで、資本の流動、貿易及びその背後にある規則、制度の拡散の助けを借りた、世界的な資源配分という市場の理想が、人類の歴史において初めてその輪郭を現した。多少偶然の一致ではあるが、この激しく波打つグローバル化の潮流は、前世紀の80年代を起点とする中国の転換期と、時間の上で重複している。

その結果、世界における資本、貿易状況は、ひとつの背景としてのみならず、現実的な力として、中国の転換へと巻き込まれていった。言い換えれば、中国の転換は、もはや閉鎖的な転換ではなく、グローバル化の深刻な要素を内包した転換なのである。中国はいま、全く未知の歴史の中にある。

 独立主権国家の自主的な力として、グローバル化は、中国の転換において、ほぼあらゆる方面に深く浸透していった。十数年前、中国人にとって夢に過ぎなかった自動車が家庭に入り込み、中国人は世界市民と同様に、遥か遠い他国で起きたニュースをリアルタイムで共有し、政府官員、学者、企業化が国際的慣例を論ずるのに熟練する時、精神面であれ、物質面であれ、また、個人の方面であれ、政府の方面であれ、グローバル化は、中国の転換の中で、既に、無形ではあるが、巨大な推進力になっていることを我々は痛切に感じるのである。政府の外にあるこうした重要な力は、中国の転換において非常に観察するに値する焦点である。 

 WTOに加盟して4年が経過し、中国がグローバル化に融合するプロセスが全速で推進され、“中国の脅威”、“中国の世紀”という驚きの声が上がる中で、中国がグローバル化の巨大な受益者としてのイメージもまた、より顕著なものとなっている。しかし、果たして、事実は疑う余地のないほどに確かなものなのだろうか?

 ◆底辺競争による抑圧なのか、それとも要素賦存の結果なのか?

 学者や政府官員が、十数年間飽きることもなく啓蒙し続けた結果、“競争”という一単語は、ついに中国人の生活における核心的な語彙及び重要な経済哲学となった。一般の理解において、いわゆる競争とは、誰が人より優れているかを競う優位競争の過程であり、その創造を刺激し、進歩を促す効果はほぼ当然のこととされている。

しかし、こうした理解においては、明らかに重要な例外が漏れている。それは、相当に多くの状況において、競争はちょうど正反対の結果をもたらしうるということである。この場合、競争参加者は、より優れたものへと変化しないばかりか、自らの道徳的拘束を緩和し、手段を選ばず競争上の優位を得ようとする。個人、グループ間の競争はこのとおりであるし、国家間の経済競争もまた同様である。

 グローバル化の時代において、国家が経済競争において競争上の優位を得る方法は大きく二つある。一つは、経済活動における科学技術、教育への投入を増やし、自国国民の福利を向上させる中で、経済活動の生産性を向上させる方法である。

もう一つの反対の方法は、自国の労働階層から各種の労働保障を剥奪し、彼らの給与を人為的に引き下げ、自然環境への損害を放任し、競争における価格面での優位を得る方法である。

後者の方法は、これを形容して底辺競争(race to the bottom)、すなわち、いわゆるどん底へと突き進む競争である。文字通り、底辺競争のゲームの中で、比較の対象は、誰がより優れているということでも、誰が、科学技術、教育により多くの投入をしたかということでもない。誰がより劣悪で、より自国の労働階層を虐待し、自国の環境破壊をより我慢するかということである。言い換えれば、誰が、より人類文明の底辺へと退化する能力を持っているかということである。

 底辺競争の手段で獲得した、いわゆる競争力にあるものは、民族道徳の野蛮な状態への回帰である。“どん底に突き進む競争”は、まさに、20世紀90年代以後、中国がグローバル化において実践した内容の、最も優れた隠喩である。

 中国の超低価格労働力は、これまで、中国の一部の経済学者が自慢げに語るところの、いわゆる比較優位であり続けた。米国、日本と比較すると、中国の労働力のコストは、両者の約4%前後である。こうした労働力の価格格差について、人々は、先進国との“天然の格差”として、平然と受け入れてきた。

そればかりか、一部の政府官員は、これを喜ばしいこととして、中国は、ようやく、優位性を奪い取ることのできない、不思議な要素賦存を得たと考えた。しかし、詳しく研究していくと、この低廉な労働力価格は、決して“天然”でも、正常でもないことがわかる。

 中国が高度成長をした27年間において、中国GDPの成長速度は先進国の数倍であったが、賃金の伸び率は、このペースを大きく下回した。中国では、体制内における人員の賃金が堅調な伸びを示す一方、数が膨大な、最下層の労働者の賃金は、稀に見る粘着性を示している。日本が高度成長期にあった時、日本の賃金は、伸び率が米国のそれを70%上回っていたが、1980年に至って米国の賃金と並んだ。

日本の賃金が米国に追いつくまでには、1950年から1980年までの30年間を要した。他方、中国経済もまた、1978年から2004年まで、30年近く高度成長を実現したが、賃金は、米国の4%程度しかない。製造業において、中国の労働力価格は、90年代になってようやく高度成長が始まったインドよりも10%低い(インドの高度成長の歴史は、中国よりも10年余り遅い)。

この現象は、実に難解であるが、更に難解なのは、90年代初期から現在(中国の経済成長が最もハイペースであった時期にあたる)、中国で最も発展した珠海デルタ地区において、出稼ぎ労働者の賃金は、意外にも、この10年間で全く上昇していない。これは、世界から突出した中国の経済成長に対し、耳障りな嘲笑となるばかりか、中国における賃金の伸びに、ある種の“不自然性”があることを証明している。

 このように、賃金と経済成長が逆方向に向かう現象は、現在、既に中国最下層の出稼ぎ労働者から、いわゆる知識階層へと蔓延しつつある。ここ数年、中国経済が過熱すると同時に、中国大学卒業生の賃金が顕著に下落している。2005年初め、中国大学卒業生の賃金は、既に毎月500元〜600元という超低水準に達している。

人材市場で職探しに急ぐ河南財経大学の卒業生は、やるせない様子で、“これでどうやって生活していけというのか?”と語っている。こうした労働力価格の趨勢に基づけば、更に30年が過ぎた後、中国と先進国との格差はますます大きくなるおそれがある。いわゆる中国の世紀とは、民族主義の非理性的興奮が残した歴史の笑い種にすぎないものとなるだろう。

 経済が不断に成長を続け、賃金が停滞(ひいては不断の下落)する現象を、単に中国労働力の無限供給という賦存条件に帰することは非常に容易である。しかし、ここで疑問なのは、人口密度が中国を遥かに上回り、国内市場の潜在力が中国を遥かに下回る日本において、なぜこうした現象が発生しなかったのか?

また、同様の問題として、数が驚異的に多い農民が身を変えた出稼ぎ労働者において、供給過剰の問題が確実に存在するというならば、中国における人口比率がごくわずかである大学生においても無限供給という状態が存在するのだろうか?労働力の無限供給という説明は、単に似て非なる、全く説得力のない浅薄な理屈であり、故意に大衆に押し付ける学術的蒙昧であることは明らかである。

 事実上、労働力価格は、単純な市場の需給関係によって決まるのではなく、政治、経済、社会、要素賦存等、様々な要因が総合的に作用した結果である。したがって、中国の超低価格な労働力もまた、決して要素賦存によって決まったものではなく、人為的な制度が影響したものである。

このうち、大きなカギとなるのは、政治制度の影響である。中国において、労働力は、純粋な自然資源と見なされて使用されており、賃金について集団で交渉する権利がなく、先進国では既に当然のものとなった各種の社会権利(福利、保障等)については言うまでもない。

相当に多くの場合において、彼らの待遇は、全く感情を持たない自然資源に及ばないことすらある。少なくとも、環境保護を呼びかけることは、中国においては合法的である。しかし、労働者の権利の保護を呼びかけることは、事実上非合法である。

 このため、分散した個体を為す彼らの賃金は、資本とのゲームの中で、コストの中で最も圧縮が容易な一部分となる。中国の経済成長、とりわけ90年代の経済成長において、中国の労働力価格は、簡単な再生産を維持できる最低水準へと圧縮され続けてきた。中国の沿海地区において、地方政府は、資本、特に外資に最大限迎合するため、安価で自然資源を譲渡した後に、労働者の自発的、合理的な訴えをも最大限に抑圧し、人為的に価格競争における優位を維持してきた。

こうした人為的な抑圧は、中国における労働力の基準価格を極めて大きく引き下げた。おかしな教条に照らすならば、こうした極めて不正常な価格は、冒涜することが許されない、市場における“均衡価格”と見なされる。しかし、この均衡価格を覆う体制の重圧を取り除いてみれば、実際のところは全く均衡していないことが分かるのであり、この価格は、現在の水準から、現代社会の基本的文明の水準へと大幅に上昇していくのである。

 企業経営者と地方政府にとって、賃金は、必ず圧縮すべきコストであるが、労働者にとって、賃金は、必ず拡大すべき福利である。賃金の最終的な価格水準は、両者の力によるゲームの結果である。これは、典型的な政治過程であり、市場原理主義者が口を揃えて言う簡単な市場過程ではない。現在。我々に明らかなのは、中国経済の成長過程におけるあらゆる局面において、中国の労働者、特に最下層の労働者は、このゲームの最終的な結果として、余すところなく惨敗しているということである。

したがって、21世紀初めの数年間において、中国のグローバル競争におけるこの“秘密”を知り、この秘密が中国の要素賦存であることに突然“発見”する者が現れた時、我々が、彼らの通り一遍な理解、結果を逆に原因とする才能に敬服しないのは、非常に困難なことであった。政治過程の冷酷な結果(労働力価格)を要素賦存の問題にするとともに、誇らしい比較優位として喜んで受け入れているのは、既に学術上の無能に過ぎないことは当然のことである。

 率直に認めるべきなのは、ある者が既に、中国の民衆の意識の中に一つの神話を作ることに非常に成功していたということである。この神話は、我々に、次のような誤解---我々は、熾烈な国際競争環境に直面しており、かりに人民の労働時間を延長せず、賃金、保障水準を引き下げなければ、彼らは失業の危機に直面する---を生んだ。しかし、実際の状況として、中国における低賃金の多くは、国内の分配における深刻な不均衡の結果である。これは、国際競争の結果でもなく、要素賦存がもたらしたものでもない。

 低廉な労働力価格によって、グローバル競争において、有限かつ脆弱なコスト面での比較優位を勝ち取ることができ、外貨準備の拡大、貿易の成長により、国家が強大であるというイメージを勝ち取ることもできる。しかし、こうした、人民の福利を犠牲にし、社会の倫理基準を引き下げることを代償として国家競争力を得る方法は、典型的な底辺競争である。

ある西方の評論家が、「中国が資本主義を破壊している!」と叫ぶのももっともなことである。明らかに、彼が怪しんでいるのは、中国のいわゆる競争力ではなく、我々が意外にも、かくも易々と現代資本主義の倫理の最低ラインを超え、野蛮、冷酷な原始資本主義時代へと後退していることである。

この結論については、正常な水準を遥かに上回る中国の工場における労働災害の死亡率、業務時間を見るだけで、我々に疑う余地がなくなるであろう。おそらく、こうした野蛮な力を借りなければ、著名な資本主義国の相手達を震え上がらせることはできないのであろう。しかし、野蛮な力は結局のところ野蛮であり、文明の力と長く競争を続けることはできない。

 人力(マンパワー)は、民族国家における最も重要な生産要素として、国家競争力の根本をなすものである。国家が人力資源を、簡単な再生産を行うための最低水準にまで抑圧することは、工場が減価償却費を計上しないのと同様に荒唐無稽なことである。

これによって、短期において超常的な産出量を創出することが可能となっても、最終的な勝者になることは絶対にできない。一つの残酷な事実として、中国には超低価格な労働力があるが、生産性の要素を考慮すると、労働集約型製品の生産において、製造業における付加価値を同じだけ創造するために要する労働力のコストを考えると、米国は中国のわずか1.3倍相当、日本は中国の1.2倍相当である。

また、韓国と比較した場合、中国の労働コストは韓国より20%高い。これが意味することは、中国が、米国、日本の25分の1近くというわずかな賃金と引き換えに得たものは、労働力コストにおけるわずかな優位であり、この優位は、いつでもその他要素に相殺されうるということである。

 ◆FDI(海外直接投資)の背景

 グローバル化の競争環境の中で、中国が採用した底辺競争は全方位的なものであった。これは、中国のFDIにおいて突出して現れている。改革開放以来の20年余りの間に、中国が吸収したFDIは、既に5000億ドルに達している。この数字は、戦後の50年間に日本が吸収したFDIの10倍である。同時に、2002年以後、中国は米国を超え始め、FDIを世界で最も吸収した国家となった。

ある者は、中国は、世界のFDIを引き付ける巨大な磁石であると語った。発展途上にある国として、中国は、短期間のうちに、世界資本主義の首都である米国を超えたのであるが、これは確かに驚異的なことであった。絶対多数の人が、このことをもって、中国の世界競争力が破竹の勢いであることの明らかな証拠と見なし、これを喜んで受け入れてきた。

しかし、まさに我々が、前述の低賃金において発見した秘密と同様に、中国が世界を見下しているFDIにおいても、同様の巨大な代償が隠されているのである。低賃金にほかに、世界のFDIが押し寄せてきたもう一つの重大な原因は、中国の各地方政府が、底辺競争の方法で、自然資源、環境、市場、ひいては政府の税収を叩き売りしてきたことである。

 90年代中期以降、中国経済が現在の体制の下で内発的に高度成長を実現する原動力は、実際のところ、既に衰弱していた。こうした状況の下、外資の導入は、各地方政府が、当地の経済成長を維持するための、唯一実行可能な手段であった。また、外資の導入は、国家戦略としても、節制することなく奨励された。

地方官員によって、一切を惜しまずに外資を導入することは、最小のリスクで最大の収益を得る手段であった。これが、90年代中期以降、中国のFDIが高成長した重大な背景である。しかし、あらゆる地方政府がこの秘密を熟知するとともに、これを、経済発展のための最良の方法と見なした時、競争が白熱化の方向に向かうことは避けられない局面となった。

中国における外資導入の風が最も熱く吹いた長江デルタ地区においては、地方政府による叩き売り式の競争は、非常に惨烈な程度に達した。蘇州は、中国が、外資導入において最も成功し、外資導入戦略が最も発揮された模範例であった。このため、蘇州は、一連の賞賛と政治上の褒賞を得た。しかし、このために蘇州が支払った代償について言及する人は極めて少ない。

江蘇省政府内部の刊行物が明らかにしたところによると、蘇州の土地開発コストは、1ムーあたり20万元であった。しかし、外資を導入するために、価格を1ムーあたり15万元に引き下げた。こうした悪性競争に駆り立てられ、周辺の呉江、寧波、杭州地区は、地価を1ムーあたり5万元前後という超低水準に抑えるほかなかった。

こうした地区の近隣に位置していたことから、寸土寸金(土地の価値が高いこと)と称される上海も、この価格競争に加わった。上海郊外では、土地の価格が5万元〜6万元に下落した。こうして、中国経済が不断に成長を続ける一方で、商業用地の価格が不断に下落を続けるという奇怪な現象が発生した。

蘇州昆山においては、1ムーあたりの工業用地の価格が、2001年の9.5万元から2002年の8万元、2003年の6万元にまで下落した。こうした値下がりに対し、昆山経済技術開発区の責任者は、“値下げをしなければ競争力を失ってしまう”と語った。この責任者は、明らかに誠実であるが、この誠実さが、かえって、中国FDIにおける底辺競争のロジックを徹底的に暴露しているのである。

 中国のFDIにおける底辺競争は、当初、土地の叩き売りにおいて表出されたが、表出されたのは、土地のみではない。大多数の状況の下で、地方政府は、外資を導入するために、“組み合わせ”型の底辺競争戦略を採用した。これは、土地の権利の譲渡のみならず、財政、金融における補助が必要とされた。

同様に、長江デルタ地区においては、“地価ゼロ、工場の建物無料、政府指定銀行による補助貸付(1:1、場合によっては1:2の比率)‘五免十減半(5年間所得税を免税、以後10年間は半免)’‘政策的ダンピング’は、既に、こうした地区における、外資導入手段の常套的な組み合わせとなった。ある者は、これを、政府の“割肉試合”と称した。

当然、政府自身には、割くべき肉はない。こうした、いわゆる“肉”とは、実際のところ、自国人民の福利なのである。自国人民の福利を犠牲にして得た、FDIに関する鑑賞向けの指標は、政府官員及びFDIの投資者にとっては純収益であるが、本国人民にとっては、純粋な赤字取引である。

 こうした、中国FDIに関する真の内容が出血を伴うものであることを知れば、我々は以下の事実に直面しても驚きを感じない。GDPが全国第4位である蘇州市は、住民の豊かさの水準について多項目を比較衡量した指標を見ると、意外なことに、中国内陸部奥地にある成都市に劣る。

中国FDIの、自国人民の福利水準の向上に対する効果は、この点から伺い知ることができるだろう。更に重要なのは、FDIが自国住民の収入に及ぼすマイナスの効果がまだ明らかになっていないということである。土地、自然資源が将来生み出すキャッシュフローは、全てGDPを通じて、不断に外部へと流出を続けている。中国から資産が持ち去られ、中国にGDPが残されていく、これが、底辺競争のロジックにおけるFDIのもう一つの側面である。

 ある中国の学者が、以前に、FDIの効果についてマクロの推計を行った。彼らの見解によると、FDIの投資収益を10%と仮定すると、主にFDIによって形成される国家外貨準備の投資収益率を3%であり、両者の差7%は、資本効率の重大な損失を意味する。日本と同様、中国の貯蓄率は異様なまでに高く、中国は、資本が相当に豊富な国家である。

しかし、中国が改革開放の27年間において吸収したFDIは、日本の戦後50年間の10倍であり、年度の数字において、貯蓄率が相当に低い米国のそれをも上回っている。これは、実に不思議な事実であり、中国において、驚異的な資本の浪費が存在しているほか、もう一つの事実を証明している。

それは、中国が大きく増加させていったFDIは政治的選択であり、非合理的な体制が作り出した、非合理的な経済的選択(官僚の利益からすれば合理的な選択ではあるが)であるということである。

可笑しなことに、こうした政治的選択は、単に、人を驚かす、誇示できるようなFDIの数字を作り出しただけであった。我々がこれに対して支払った代償は、国民福利の純損失であった。これが体制による選択である以上、体制が変わらず、底辺競争戦略が許容できない段階にまで達しなければ、方向転換をするのは非常に難しい。

 ある学者が、中国の一部地方政府の2005年経済計画を研究したところ、外資の導入は、遍く“経済発展の生命線”というレベルにまで引き上げられていることを発見した。彼は、ユーモアを交え、「地方政府の活動の重点は、第一に外資の導入、第二に外資の導入、第三もまた外資の導入である」と評論している。

中国の改革の時期全体を通じて、中央政府から、いわゆるプロジェクトと投資を獲得することは、地方政府官員が経済を発展させる上での最重要のアジェンダであり続けた。90年代中期以降、FDIは、こうした伝統的思考から、この他に、一つの近道を切り開いた。かりに、以前の道(中央政府からのプロジェクト等の獲得)が、投資の巨大な浪費をもたらしたというならば、後者の道(FDI)は、資産が流出するための門戸を開いたといえる。

聞きなれている言葉を借りるとすれば、我々は、国際資本が狡猾、貪欲に過ぎるということに責任をなすりつけることはできない。ただ、自らが愚かすぎることに責を帰することしかできない。この体制独特の優位性は、国民の許可を経ないで自国民の福利を犠牲にする点にあるが、これが栄誉なことでないことは明らかである。

ちょうど、ある評論家が論じたように、資本は、常に“労働力価格が最も低廉で、政府が搾取を保証するレベルが最も高い所に流れていく(自然環境の搾取を含む)”。利益に目ざとい国際資本がこうした体制を非常に歓迎することは全く疑うところではない。従って、彼らもまた、好んで、最廉価という賞賛をもって、我々の旺盛な虚栄心を満足させるのである。

 中国の、グローバル化競争における底辺競争の手段は、賃金を人為的に低く抑えることや、土地収益、財政収益の贈与に止まらない。環境破壊の容認、自然破壊を消耗する開発、自国市場の譲渡、本土経済への差別等の全てが、この、底辺競争の体現である。

多すぎる証拠が示すように、中国は、“世界の工場”の美名を勝ち取ったが、その一方で、中国の環境破壊、エネルギー消耗率、自然資源の消耗率は、全て、人々に耐え難い段階に達している。しかし、これこそが、“世界の工場”を打ち立てるための基礎なのである。

この地球上で、借金を踏み倒して返済しない途上国を見かけることはあるが、中国のように贅沢で気前のよい貧困国を見ることは少ない。毛沢東時代、中国は、損を出して喝采を得る手法で、憚りなく第三諸国を支援した。

今日、中国は、同様の方法で国際資本を“無私”に支援しているが、これは、絶妙なまでに歴史と一致している。この一致のうちに、我々が目の当たりにするのは、中国の核心にある体制及び歴史の延長---本土における民間の自主的な力を蔑視、抑圧する体制と政府中心主義の戦略文化である。

 ◆政府中心主義の誤り

 グローバル化の時代、一国の競争力は、主として、国家に属する企業が備える競争力に体現される。政府を離れた力として、企業は、政府の力よりも更に容易に民族国家の境界を越える。グローバル化の過程において、多国籍企業の巨頭が及ぼす影響が、ますます顕著になっていることは、このことを証明している。

しかし、転換期全体、とりわけ90年代全般において、中国は、経済競争において、政府中心主義という戦略を固守した。この戦略は、一国の企業や人民ではなく、政府が競争の主体となるものである。この政府中心主義は、中国国内における全能の政府体制の延長として、非常に自然な結果であり、財力を最大限政府に集中させ、ある種の“調整”能力を形成し、名実相伴わない、指標によるイメージを作りだすものであった。

中国は、政府による統制を基礎とする為替制度によって膨大な外貨準備を形成し、廉価で資源を売り払う手段で超高額のFDIを形成し、賃金の抑制及び財政補助によって輸出を刺激し、政府投資によって経済成長を牽引することなどを実施したが、全ては、こうした政府中心主義戦略の結果なのである。

 これら全てが、中国がよい国際的イメージを形成する上で必要なバックデータを提供したことについては、疑う余地がない。しかし、同様に、これらが、相当程度に本土企業の衰弱及び人民の貧困を代償としていたこともまた、疑う余地がない。かりに、国家だけがある種の“競争力”を備えており、その一方で企業が衰弱し、人民が貧困に陥るならば、いわゆる“国家競争力”は、朝顔の花一時の見せかけの現象にすぎない。

経済発展の本来の目的は、人(の価値を)を“非常に高価値なもの”とすることであるが、中国の高度成長に伴い、人はかえって“安”くなり、ますます廉価になっている。こうした事実は、明らかに、経済発展の歪みである。

おそらく、グローバル化の時代にあって、経済人的な国家官僚からすれば、民族国家の範囲をまたぐような、巨大な利益を得るためには、最貧層や全く競争力のない企業を、意図的に維持することが必要であったのだろう。

 他国とは逆に、中国は、自国市場を保護することも、自国市場をできるだけ本土企業に開放することもしていない。それどころか、様々な手段で、本土の企業、特に民間企業を抑圧している。これによって、本土企業は、本土市場がもたらす貴重な成長の機会を十分に利用できなくなった。

また、これが、巨大な市場潜在力を有する中国において、26年もの長きにわたり、国際的巨頭となる企業が一つも出現しなかった原因の一つである。中国の蘇州は、グローバル化への融合が最も徹底して行われた東部沿海都市であるが、かつての80年代、中国市場において非常に有名であった4つの家電企業(四小名且と呼ばれた)は、今では全てが影を潜めてしまった。

このうち、最も有名であった一社は、店舗用建物の賃貸で苦しい日々を送っている。中国商務部が2005年に発表した報告は、次のことを認めている:市場と引き換えに技術を得るという中国の当初のねらいは達成されておらず、多国籍企業は、中国において独占の兆候を呈している。


しかし、中国商務部は、多国籍企業が進軍して一気に攻め込むことができた理由は、中国の官僚が、本土民間企業の競争力を意図的に弱めてきた結果であることは認めていない。グローバル化の経済力は、ただ、中国体制にある、こうした天然の欠陥を、主体的に利用したにすぎない。

あるいは、グローバル化の力が、各国における体制の賦存(自然の要素賦存ではない)を主体的に利用し、世界的な資源配分を行ったのである。多国籍資本による、グローバル化における資源配分の中国におけるテストは、明らかに、成功した傑作であった。

 ◆グローバル化における熾烈な競争の中で、“不満を持つ出稼ぎ労働者+低技術”

 主な構成要素とする中国企業が真の競争力を備えうるのか、これは非常に想像し難い。こうした“原始”的な競争力をもってしては、中国は、アフリカに資本主義を輸出する能力しかないであろう。事実上、こうした競争力の欠乏は、中国の貿易において既に表れている。

改革開放以来、中国の貿易総額は急速に増加しており、WTOの統計によると、2003年、中国の輸出入額は、既に世界第四位から世界第三位に躍進していた。しかし、貿易総額の高成長に伴い、奇怪な現象が発生した。それは、中国の輸出製品の価格が不断に下落を続け、輸入製品の価格が不断に上昇を続けているということであった。

輸入製品の価格上昇と輸出製品の価格下落は、交易条件悪化の典型的な症状と認識される。ある統計によると、2002年、日本の対中輸出製品の価格は3%上昇し、対中輸入製品の価格は、18.4%下落した。この点だけでも、日本は、対中貿易において、毎年200億ドル節約していることになる。

これと対比をなす現象として中国華南のある輸出工場において、扇風機、ジューサー、トースターの平均卸売価格は、10年前の7ドルから、2003年の4ドルへと下落している。この工場の責任者は、“最も安い者だけが生き残ることができる”と嘆いている。

中国の交易条件が不断に悪化を続けている事実について、表面的に、中国は、不断に成長する貿易において得る利益がますます減少しているだけである。また、深層において、このロジックに符合し、人々を不安にさせる現実がある。それは、中国企業の相対的競争力は、経済成長に従って上昇しないばかりか、かえって、不断に下落を続けているということである。

 多国籍企業に象徴されるグローバル化の力は、中国の転換に深く巻き込まれていく中で、中国に、新たな経済の局面を作り出した。一方で、多国籍資本は、ブランドと文化的影響力により、中国における少数の富裕者と中産階級の絶対部分の消費力を独占した。

富裕者と中産階級は、中国で最も消費能力を備えたグループであり、多国籍資本による製品が内包する文化の内容は、彼らのブランドへの欲求、ステータスを確認するニーズを満たすものであった。

グローバル化の核心にあるイデオロギーとして、消費主義は、まず意識面において発生し、次に、経済面において、中産階級を民族国家の内部から分裂させ、世界の中産階級となる。したがって、多国籍資本が一旦彼らの消費能力を独占すれば、中国の市場は、実際上、民族国家の内部から移転し、世界市場の一部となるのである。

 他方、技術が簡単で、生産性が低い中国本土の製造業は、世界的な生産過剰がもたらした熾烈な競争により、多国籍資本が、これを世界生産体系に組み入れ、その世界的な生産体系の中で、簡単な組み立て、加工、部品の生産等の提供されることに成功した。

このため、中国の下層労働者は、実際上、世界経済体系の最下層に変化していった。中国の階層分化が、既に、世界的な階層分化と緊密に融合していることは非常に明らかである。本国の政治体制、国際資本の二つの力を借り、中国の膨大な下層労働者の地位は、更に堅固なものとなるであろう。

 こうして、中国における単一民族国家の経済体系は、グローバル化の力によって組み込まれ、分裂、分解されている。中国中産階級の消費需要に対応しているのは、国際資本からの供給であり、中国本土の製造業は、最終的な販売ルートを掌握することができないことから、多国籍資本の組立部門へと変化している。

多国籍資本にとって、こうした組立部門は、世界のどこででも探すことができる。彼らは、いつでも、コストが最も安いと考える場所を選ぶことができる。すなわち、中国の製造業が直面しているのは、自国の同業者との競争だけでなく、世界規模での熾烈な競争なのである。こうした競争は、多国籍資本が、“組立部門”の利潤を最大限圧縮することの理由付けとなる。

 中国本土最大の消費需要が、本土産業の合理的な利潤へと転換することができない場合、中国の産業競争力の高度化は、全く想像できないものとなる。言い換えれば、彼らは、相当に長い期間において、簡単な再生産を維持することができるのみであり、世界経済体系のバリューチェーンの最下層に固定され、上流には移動できないのである。

しかし、これが、最も深刻な結果というわけではない。更に深刻なのは、中国に最も多くの就業機会を提供している本土製造業(他の産業も含む)が、生存が困難であり、利潤が薄く、労働者の賃金を引き上げることができないために、労働者が貧困の罠に嵌っていることである。これは、中国のマクロ経済のパフォーマンスにおいて、常に内需が不足している重要な原因の一つである。

内需不足であれば、必ず外需を拡大する必要があり、外需の増加は、必ず他の貧困国との競争が必要になる。こうした競争は、再び、賃金及びその他コストの不断の引き下げを引き起こす。そして、これが、更なる内需の萎縮をもたらす。これは、抜け出すことが難しい需要の罠である。

 社会構造からみて、グローバル化の力の介入は、二元構造が基礎にある中国社会構造の分裂を激化させた。中国は、既に、本土における産業構造の転換を通じて社会構造の整合性の確保、転換を行うことができなくなっている。

消費が下層の方向へと拡大していかない断絶社会にあって、その長期的な経済成長の潜在力は非常に疑わしい。合理的な推測として、次々と押し寄せるグローバル化の力は、おそらく、短期の経済成長を促進したであろうが、その長期的な発展の道を断ち切ってしまったであろう。

 ◆グローバル化官僚の隆盛

 中国の改革開放における大部分の期間、中国の官僚は、本土経済、とりわけ本土民間経済の発展に向けた政策を遂行してきた。金融、土地等の要素資源を平等に分け合うことができない状況の下で、中国における多くの本土企業は、官僚と同盟関係を結んで多元的、短期的な戦略文化を形成するか、あるいは、唯一の優位である廉価な労働力を掘り起こし続け、これを極度にまで発揮させていった。

この二つの状況は、いずれも長期的な企業の競争力を形成することはできなかった。本土経済を抑圧するほかに、中国は、外資に対し、税制面において超国民的な待遇を行った。これによっても、本土企業は、長期的に極めて不利な競争の位置に立たされた。中国本土の草の根な企業に対する蔑視の深さ、外資への優遇の多さは、非常に鮮明な格差をなした。

最も広く知られた例証として、外資の税制優遇措置は、20年余り延長された後も、依然として取り消すことができていない。これに対して、中国財政部長である金人慶は、非常な口惜しさを感じており、ある会議において、彼は、次のように不満を述べた:“現在、外資企業の所得税は15%に満たないが、中国資本の企業は33%である。これは、完全に不平等である。

WTOの枠組みの中で、中国資本の企業を優遇せよとは言わないが、少なくとも同等に見なす必要がある。これこそが、国民待遇である。現在、中国資本の企業の立場に立って話をする人は少なすぎ、一方で、外資企業の立場に立って話をする人が多すぎると私は思う。”しかし、金人慶は、こうした外資のみを優遇する怪現象の背後に、“グローバル化官僚”の隆盛があることを知らないであろう。

 いわゆるグローバル化官僚とは、国際的慣例に詳しく、グローバル化の視野を持ち、意識において、多国籍企業に対する理解が深い民族国家の官僚である。グローバル化官僚には、中国官僚に対して強い影響力を持つ学術団体も含まれる。こうした官僚と多国籍企業との間には必ずしも利害関係はないが、多国籍資本家階層に対し、深い文化的な理解がある。

まさに、この文化上、意識上の理解により、グローバル化官僚は知らず知らずのうちに国際資本をひいきするのであるが、これこそが、グローバル化の真の力の所在である。多国籍資本によるグローバル化とは、単なる経済的な力に止まらず、更には、文化的な力でもある。この、隠れた文化の力は、外に表れた経済の力よりもかなり強大である。

2001年、中国証券事務を司る。中国証監会は、意外にも、上場企業が再度のファイナンス行うに際して、必ず、国際会計事務所の“補助監査”を受けるべきであるとした。中国の会計事務所の虚偽は慣例化しており、信任に堪えることはできないが、“四大”(国際会計事務所)もまた、同様に虚偽を行う可能性がある。制度設計の失敗を国内会計事務所のせいにするとともに、差別的な政策をとるのは、相当にでたらめである。しかし、こうした施策が反映しているのは、中国のグローバル化官僚の腹の内にある文化的な自覚である。

 既に、米国の学者は次の点を見出していた:“大多数の国家及び都市において、グローバル化の意識のある官僚及び政治家の力は、既に、民族経済を提唱する側の力を上回っている。”これこそが、まさに、中国において浮上してきた力であり、金人慶が感じた(外資の代弁者的な)無形の力である。

更に重要なのは、国際資本と遅れた政治文化が、いとも簡単に相互に腐食し合うということである。中国企業と比較すると、国際資本は、遍く、(母国において培われた)より健全な企業文化と商業倫理を持っている。しかし、利益の誘惑、所在国における腐敗した政治文化に駆られ、一緒になって悪事を行うことは避け難い。様々な事象から明らかなこととして、多国籍資本は、既に、経済利益のため、ますます広範に、中国官員の腐敗事案に巻き込まれている。

中国政治におけるランクが非常に高い、中国建設銀行行長 張恩照の腐敗スキャンダルは、その一例である。こうした共謀が、今後中国においてますます頻繁に行われることは、全く予想が可能である。特に懸念すべきなのは、多国籍資本が“政府の捕虜”となる能力は、中国本土の企業に比べてかなり強いことである。

かりに、こうした系統的な癒着が現実のものとなれば、中国の官僚企業が、“国家権力”を利用して出資を行うことで、更なる利益のおこぼれに与ることもありうる。他方、中国本土の草の根企業は、発言権を完全に失い、危険な依存的地位に置かれるであろう。これが意味することは、中国本土企業は、徹底的に、最も利益の薄い、バリューチェーンの最下層に徹底的に固定されるということである。

 以下の数字は、バリューチェーンの最下層にある企業の依存的境遇が、一体どのようなものかを直感的に明らかにしてくれるだろう:2003年、中国は53億足の靴(世界の各個人に一足の靴を生産したことになる)を輸出したが、中国企業が得ることのできる利潤は、総利潤の20%しかなく、残り80%の利潤を獲得するのは、全てブランドと販売ルートを持つ先進国の企業である。

モルガンスタンレーのエコノミストは、中国が得ているのは、わずかなパンくずにすぎないと説明している。中国本土企業は、競争力が欠乏しているために次第に、付加価値が極めて低い、世界におけるバリューチェーンの最下層に追いやられている。一方、外資は、中国において、付加価値が極めて高いバリューチェーンの最上部にある輸出を独占している。

1993年以後の10年間、中国の工業機械の輸出総額は20倍に増加した。しかし、このうち、外資企業の輸出割合は、35%から80%近くに躍進している。同時期、最も付加価値を体現しうるコンピュータと周辺機器の輸出において、外資企業が占める割合は、92%という絶対的な割合に達している。その他のハイテク産業における状況も、基本的にはこのとおりである。

外資が中国において占める突出した高比率を占めている状況は、韓国、タイといった後発工業国の状況と比べても、相当に異常である。こうしたことから、ある研究者は中国において、既に“外資代替効果”、すなわち、正規の製造業が、外資に取って代わられるという現象が発生していると認定している。

 このように、中国は、単に、外資に対して廉価な労働力、土地を提供し、環境保護、社会責任基準が超低水準な生産基地を擁しているにすぎないのである。

 つまり、90年代以後、グローバル化の波の中で選択した急進的な底辺競争戦略により、中国は、既に、国際資本が世界経済体系の中で構築した、最も廉価で、最も広大なプラットフォームとなっていたのである。これが、中国が、大陸型経済体にして、貿易依存度が比肩するものがないほどに高いことの背景にある原因である。

しかし、通り一遍の理解しかできない経済学者が、中国の自由貿易における巨大な成果に陶酔している時、世界銀行とIMFが発表した最新の研究は、彼らの頭に冷水を浴びせた。この研究の結論は、貧困国の貧困の原因は、自由貿易が欠落していることではなく、貧困国家の貿易依存度が40%を超えている---これは、富裕国の平均水準に比べて遥かに高い---ことである。これは、異様に高い貿易依存度が示していることは、国家貿易の発展の度合いでは決してなく、国家の貧困の度合いであるということに等しい。

 中国独特の体制には、次のような機能---世界の経済競争の圧力を国内に転嫁し、かつ国内最下層の人民に転嫁する一方で、国家のレベルにおいて、強大なイメージを維持する機能---がある。そして、その中の機微については、西方国家に長期間生活している人にとって理解することが難しい。したがって、様々な力強い指標の力を借りて、多く注目を集め、ひとしきりの驚嘆の声を博する時、中国は、実際のところ、一連の魔術を演じているのである。

しかし、目がくらむような東方武術(功夫)の演技を一通り終えた後に、我々もまた、次第に、最大の破綻を露呈し始める。それは、我々が有しているのは、膨大な最下層の人口と、全く競争力のない本土企業であるということである。これこそが、グローバル化の未来図の背後に、我々が目にするもう一つの中国である。

(06/10/12 09:27)


(私のコメント)
かなり長い中国経済の論文ですが、NHKなどの親中マスコミが言っているような「中国は世界の工場」などと言ってはいられない悲惨な状況が述べられている。株式日記では中国の経済発展は外資による資本と技術におんぶに抱っこに肩車によるものであり、改革解放から30年近く経つのに自律的な発展が見られないことを指摘してきました。

中国は30年の間に外国から5000億ドルのも投資を呼び込みましたが、日本における外国からの投資額はその十分の一に過ぎない。にもかかわらず中国の経済規模は日本以下であり、毎年10%近い経済成長が続いているのに労働者の賃金は一部を除いて上がっていない。だから内需になかなか結びつかない。

中国の地方政府は以下に外資を呼び込むかに夢中であり、工場用地は安く提供し、所得税なども国内企業の半分以下などと優遇している。これでは国内企業は外資に負けてしまう。それでも中国全体から見れば経済発展していることになり外資による外資のための経済発展であり、中国人労働者は低賃金のままだ。

普通ならば日本や他のアジア諸国に見られたように経済発展すれば労働者の賃金も上がり、国内需要も活発になり自立的な発展が見られるのが普通ですが、中国では内需が不足したままだ。内需を増加させる為には賃金の上昇が必要ですが、賃金が上昇すれば外資は工場を他のインドやアジアに移してしまうだろう。

日本の高度成長時代は大学生も理工系を中心に引っ張りだけでしたが、中国では毎年10%近い高度成長が続いているはずなのに大卒者の失業者が大量発生している。低レベルの労働者が余るのは分かるが、数に限りのある大卒者の就職難は不可解な現象だ。中国は自前では技術者を養成できない構造があるのだろう。

中国からの輸出品は年々値下がりしているのに、中国への輸入品は値上がりしているのはなぜなのだろうか? このような経済構造では中国の交易条件は悪化してしまう。さらに中国発のブランド商品が生まれないのも不思議な事であり、「中国は世界の工場」ではなく「中国は世界の下請工場」なのだ。

中国の国家戦略としては海外から外資を呼び込んで技術を導入して自前のものとしていく戦略ですが、必ずしもそれが上手く戦略どうりにいっていないようだ。むしろコピー商品を作ってより安くして海外に輸出する方向へ行ってしまっている。これでは中国人技術者も育たず原材料や部品を輸入して、安い工員を使って組み立てて輸出しているだけだ。

NHKなどの親中マスコミは「中国は巨大市場」と大宣伝しているが、中国の国内需要はそれほど大きくはない。なぜならば中国の労働者の所得を上げれば輸出依存体質の中国経済はストップしてしまうからだ。だから中国政府が出来る事は絶えず外資を呼び込みつづけるしか方法はないのだ。

中国は有人衛星を打ち上げたり、衛星破壊実験をしたり、新幹線を走らせたりと技術大国のイメージアップを図っているが、新幹線に見られるように実態としては日本の東北新幹線のコピーであり、有人宇宙船もロシアの技術援助で出来た事だ。しかしながら国内には自前の技術であると発表している。

中国は果てしない「底辺競争」にさらされている。中国はグローバル経済の一番の受益者と思われているが、一番の受益者は多国籍企業であり、一番の被害者は低賃金で酷使され続けている中国の労働者なのだ。このような体制がいつまでも続くわけはなく、地方の暴動騒ぎは年々増え続けている。

中国の経済発展による利益の80%は多国籍企業に行ってしまって中国に残る利益は20%だけだ。それでも外貨は貯まっていくから元の為替価値も上がるはずなのですが中国は必死になって固定しようとしている。アメリカが望むような40%もの切り上げがあったらメイドインチャイナは一気に競争力を失ってしまう。




2026年の世界。日本の企業の競争力の低下に伴い、円の為替
レートがどんどん下がっていった。円安の進行が始まったのである


2007年2月9日 金曜日

2026年、言葉の壁で日本沈没 2006年5月17日 分裂勘違い君劇場

2026年、企業が生産する商品やサービスの主要な原料は、物質的な原材料というより、安価で良質の知識労働力だととらえる方が、より実態に近くなっていた。

たとえば、たった二千円で買える安っぽい椅子と、機能美に満ちた二十万円の椅子の価値の差のほとんどは、それに使われている鉄やプラスチックや綿などの物理的な原材料の違いではない。どのような人が、どのような室内空間で、どのような照明の下で、どのような家具と組み合わせて、どのような気分の時に、どのようにその椅子を使うのか、という綿密なマーケティング分析と、シミュレーションと人間工学的な設計に基づいた洞察の積み重ねであるデザインと、それを、絶妙に実装するための、繊細な金属加工技術と、素材の繊維をナノレベルから作り込みをするための高度な知識労働のたまものだ。

椅子よりも、企業のコンピュータシステム、あるいは、生活を支える銀行や電車やコンビニやスーパーのPOSネットワークなどのコンピュータインフラの方が、もっとそれが顕著だろう。それらのコンピュータシステムを構築するための原材料費のほとんどは、鉄でもプラスチックでもシリコンでもない。そのほとんどは、ソフトウェアエンジニアやマネージャーやディレクターの知識労働が原材料なのである。もっというと、それらのコンピュータシステムを使って、企業情報を整理し、現場からのデータを分析し、意志決定し、指示を出すオペレーションチームや、巨大な会計システムを運営する財務や経理のチームが生み出す付加価値の原材料は知識労働がほとんどを占めている。

つまり、小売業のようなべたべたにリアルなサービスや、椅子のようなべたべたに物質的に見える商品でさえ、その主要な原材料は、物質と言うより、知識労働だととらえる方が、より実質に近いのである。

そして、グローバル市場経済において、どの国でも、平等な条件で経済競争が出来るのは、全世界的に、原材料の調達コストが同一であるという暗黙の前提があったためである。たとえば、日本だけ、他の国の二倍の値段でしか鉄鉱石を購入できなくなったら、日本の鉄鋼業の規模は、大幅に縮小してしまうし、長期的には、世界的な競争に敗れざるを得ない。

そして、2026年においては、全世界的に、高度な知識労働による付加価値のない、単なる物作りは、極限までコモディティ化が進んでおり、それでは利益が出ない状況になっていた。つまり、物理的な原材料を加工して製品やサービスにするという行為それ自体では、利益なんか出やしないのである。

従って、この時点においては、企業活動とは、実質的には、知識労働という原料を加工して、付加価値を生産することにほかならなくなっていった。

これにより、グローバル市場経済における大前提である、原材料の調達コストの平等という原則が、まさに崩れつつあった。企業による付加価値生産の主要な原料が、知識労働になっていたにもかかわらず、言語の壁があるために、日本企業は、安価で良質の知識労働力を海外から調達できなかったからである。

日本の外では、全世界的なブロードバンドネットワークのおかげで、ネット経由の全世界的な知識労働力流通が始まっていた。太い回線を利用した、相手の表情の微妙な変化や息遣いまでリアルに感じられるほどのテレビ電話ソフトなどのイノベーションにより、地理的制約をとっぱらって、海外の知識労働者を容易に、ネットワーク越しに自在に自国のプロジェクトに組み込むことができるようになったためである。

インドもフィリピンもオーストラリアも人類史上空前の超流動性を持つ知識労働力流通圏に組み込まれていった。

しかし、このグローバル知識労働流通圏に最初に組み込まれたのは、歴史的、あるいは、文化的な事情で英語と親和性の高い国々だった。

たとえばインドは、英語圏の宗主国の植民地支配を受けたり、多様な言語を話す民族を統合するために英語を必要としたりしたこともあり、英語ときわめて親和性が高かった。

これに対し、歴史的偶然から植民地支配を受けた経験が比較的乏しく、民族および言語の同質性が高かった日本は、歴史的にそこまで英語との親和性は高くなかった。

また、インド=ヨーロッパ語族とひとくくりにされる言語を母国語とする人々に比べると、孤立語である日本語を母語とする日本人の英語の習得コストはずっと高かった。

ドイツ人が英語をマスターするのに必要なコストと、日本人が英語をマスターするコストでは、比較にならないくらいの差があるのだ。

このため、全世界的なブロードバンドネットワークによる知識労働力流通が開始したときに、言葉の壁という巨大な岩礁は、短期的には個々の日本人をグローバリズムの荒波から守る一方で、長期的には日本人を満載した日本という船がグローバリズムの海にこぎ出して明日の糧となる漁をする機会を奪うこととなった。

日本は、言語の壁があるために、海外の安価で良質な知識労働力を調達できず、日本企業が生産するほとんどの商品・サービスは、その主要な原材料である知識労働力が割高であるために、世界的に見ると、どんどん割高になっていったのである。

一方で、膨大な英語人口を抱えるインドやフィリピンなどの発展途上国から、ネットワーク経由で優秀な高度知識労働者をどんどん採用できるため、安価で良質の知識労働力を確保できる英語圏の企業は、圧倒的に原材料が安くて良質であり、ますます競争力を強めていった。この時代、企業とは、ますます人でしかないのであり、優秀な人材の調達できない企業は、敗れ去るしか無くなっていたのである。

そもそも、この兆候は、前世紀の米国で現れ始めていた。世界に君臨したアメリカのソフトウェア産業の繁栄は、ヨーロッパ人やインド人や中国人の提供した良質の知識労働力抜きには、なしえない所行だったのである。それは、「アメリカ」という国家の生み出したソフトウェア産業であるかも知れないが、必ずしも「アメリカ人」の生み出したソフトウェア産業ではなかったのだ。

この結果、二種類の日本企業が大量に発生した。すなわち、海外に拠点を移し、現地人を雇うことで生き延びた日本企業と、競争力を失って倒産する企業である。

ただし、英語圏でもないにもかかわらず、繁栄を誇っている国家があった。中国である。一人っ子政策で、少ない子供に、一族の命運をかけて出来る限りの教育投資をし、また、その期待を背負って熱心に努力し、のし上がろうとする中国の膨大な人口は、中国語圏に、大量の労働意欲旺盛な知識労働者を提供することになったからである。

さらに、単純労働者の質の違いが、日本を奈落の底へ突き落とした。中国やインドの単純労働者が、利益を生み出す「資産」であるのに対し、日本の単純労働者は、赤字を垂れ流す「負債」だったからだ。

これは、人間自体の損益計算書をイメージすれば、簡単に理解できる。

中国やインドのような国の単純労働者が消費する生活インフラは、日本に比べて、はるかに安価だ。そういった発展途上国では、生活インフラへの過剰投資や浪費はない。日本のように、コスト度外視で山奥まで舗装された道路や橋や、立派な公民館や、鉄筋コンクリートの学校や体育館や、電気、電話、上下水道の完備がされているというような、金銭感覚ゼロのデタラメな贅沢をしていないのである。

彼らの多くは、土ぼこりの舞うでこぼこの道を裸足で歩き、黒澤明の映画に出てきそうな掘っ立て小屋のような学校で勉強し、水は井戸からくみ上げ、夜はろうそくやランプのあかりしかなく、就寝時間になると土の床に家族が雑魚寝するような生活を送っている。都会に出た単純労働者は、狭い粗末な部屋に家族がぎゅうぎゅう詰めになって暮らし、ろくにおかずもない質素な食事をしている。

つまり、日本人は、発展途上国に比べると、生活インフラが贅沢すぎるために、単に生きているだけで、一人あたりの価値の消費が巨大だと言うことである。ということは、その巨大な価値消費に見合った価値を生産し続けなければ、その人間がこの国に存在すること自体で、国家はその赤字分を補填しつつけなければならないことになる。

しかし、こと、単純労働に関して言えば、中国人だろうが、インド人だろうが、日本人だろうが、それほど大きな価値生産性の違いはない。もちろん、前世紀の日本人は、単純労働といえども、そのモラルの高さ、真面目さ、勤勉さは、世界的にも突出していた。しかし、真面目に働くことで信用を積み重ねるメリットは、しだいに世界中で理解されてきた。中国、ベトナム、インドがいい例だ。

日本が高度経済成長期にあったころ、日本人の多くは、モラルの低い中国、ベトナム、インドの労働者は使い物にならないと考えていた。しかし、現実は違った。高いモラルで働けば豊かになれると理解した発展途上国の労働者のモラルは、みるみる向上し、使い物になるどころか、先進国の労働者を脅かすほどの良質な労働力になっていったのだ。

こうして、いまや、単純労働者の生み出す価値は、世界中どこでもさほど変わらなくなったにも関わらず、単純労働者の消費する生活インフラコストは、大きな格差が生じていた。発展途上国の単純労働者の生活インフラは、クローバル経済の恩恵により、以前に比べれば幾分豊かになったものの、日本のような過剰な贅沢からは、依然としてほど遠かったからだ。

そして、中国やインドの単純労働者は、消費する価値よりも生産する価値の方が大きかったため、国家にとって、それは利回りを生む資産となった。そして、日本人の単純労働者は、生産する価値が発展途上国の単純労働者とさほどの差が無くなってきているのに、消費する価値があまりにも巨大すぎるために、国家や地方自治体の予算を食いつぶす負債となったのである。

さらに、これに拍車をかけたのが、今世紀初頭に、小泉政権によって民営化された道路公団が、田舎の地方自治体の圧力に屈して、結局、民営化前に計画されていた建設予定の高速道路を、一つも取りやめにすることができず、全線を建設するという意志決定してしまったことだ。民営化された道路公団の社長の悔しそうな表情から、彼もそうとう抵抗したことが伺えるが、結局、日本は、多額の債務を抱えながらも、分不相応な高コスト生活インフラという浪費癖をやめられなかったのである。

さらに、言語の壁により、世界から取り残された日本は、知識労働力だけでなく、単純労働力でさえも、調達コストが高止まりしたため、日本に残った企業は、急速に競争力を失っていった。

こうした日本の企業の競争力の低下に伴い、円の為替レートがどんどん下がっていった。円安の進行が始まったのである。

日本企業の生み出す、安くて高品質の製品を世界中が買いたがったからこそ、世界の人々が日本製品を手に入れるために円を求め、円の需要が上がり、円高が維持されてきたのだ。いまや中国もインドも、安くて魅力的な商品やサービスを世界中に提供している。高級品なら、ドイツ、イタリア、フランス、イギリスなどのヨーロッパ勢が強い。

もはや、日本は特別な国では無くなってしまっていた。アメリカに次ぐ世界第二の経済大国であったのは、もはや歴史の教科書の一ページでしかない。

そして、この円安の進行は、日本人の生活を直撃した。輸入される原油の価格が上がり、交通手段も、電気代も、スーパーの商品も、何もかもが値上がりした。しかも、給料は据え置きだ。

いや、給料がそのままだったのは、きわめてラッキーな一部の人たちに過ぎなかった。

あらゆる生活用品が値上がりしたことと、将来への不安感から、日本の消費は徹底的に冷え込んだ。一部の裕福な人たち以外は、消費を徹底的に手控えるようになった。このため、どんどんものが売れなくなった。ものが売れなくなったので、企業はどんどん採算が悪化していった。

この結果、賃金は大幅にカットされ、合理化が進められ、大量の企業が倒産し、膨大な失業者が生まれた。

結局、日本は、言葉の壁によって、兵糧攻めにされたのである。21世紀の産業の米は、知識労働力であった。そして、言葉の壁が、兵糧の供給を遮断してしまったのだ。

この兵糧攻めにより、日本の財政は、もはや鼻血も出ない状態となった。企業が競争力を失ったことで、予想をはるかに超える税収の低下が起こったからである。そして、消費の冷え込みにより、国内経済も、どこまでもどこまでも地盤沈下していく。

こうして、医療も年金も福祉も、その財源を失い、破綻した。英語圏では、ゲノム創薬によって、つぎつぎに画期的な薬が開発され、画期的な治療法が開発されているのに、日本はそれを輸入する金がなく、保険でカバーされる範囲では、ろくな治療を受けられなくなった。それどころか、徴収される保険料が高騰し、保険に入っていない人たちが大量に生まれた。

保険に入っていないため、痛くても苦しくても、目の調子がおかしくても、医者に行くのを手控え、そのまま失明したり、半身不随になったり、寝たきりになるなどの、後遺症が残り、残りの人生を苦痛と絶望の中で過ごすケースも多かった。

建築工事の音に街があふれていたのも昔の話。いまは、老朽化し、壁のはげ落ちるに任せたくすんだ建物が並ぶ荒涼とした光景が、日本の都市によく見られる姿だ。洪水で橋が流されても、建て替える予算がなく、かなりの遠回りしなければ川を渡れなくなっているなど、珍しい話ではない。

そして、大人たちは、今日の話をしなくなった。寄ると触ると、昔のよかったころの日本の話ばかりをする。今日の話をすると、陰鬱な気分になり、だれも楽しくないからだ。

そんな大人たちを見て育った日本の子供たちは、「こんな大人たちにだけはなるまい」とネットで話し合った。子供たちはみな、日本が腐ってしまったのは、大人たちが愚かだったからだと思っていたし、その認識を、ネットで共有していた。だから、子供たちはみな、大人たちを軽蔑していた。僕たちが大人になったら、この国をもっとましな国にできるはずだ、と思っている子供もいたけど、できるだけ早くこんな腐った国を出て行こうという子供たちの方が多かった。だから、子供たちは、熱心に英語を勉強したし、英語のSNSで英語圏の子供の友達を作るのが、日本の子供たちの間で流行っていた。子供たちがヒーローとしてあがめたのは、英語を勉強し、日本を脱出し、英語圏で活躍している数少ない日本人たちだった。それがこの時代の子供たちのロールモデルだった。

一方で、そういう現実的で実利的な将来イメージを英語世界に抱く子供と一定の距離を置き、ますます盛んになっていたネットの萌えのキャラや世界観に浸る子供たちも多かった。もはや、萌え文化は、日本だけのものでは無くなり、世界に広がっていたが、いまだに日本の萌えが世界で一番繊細かつディープで、イノベーションと最新流行を生み出し続けており、世界中から尊敬を集め、日本こそが萌え文化のメッカであり、本山であるということは、揺るぎがなかった。そして、ろくな産業がなくなってしまった日本において、それは数少ない貴重な価値創造センターの一つでもあったから、あながちそういう子供たちを、現実逃避と決めつけることもできない。その子たちの中には、むしろ平均的日本人よりはるかに豊かな将来を約束された、萌え価値創造産業におけるクリエーターの卵が、たくさん混じっていたからである。

そうして、子供たちに軽蔑されながらも、子供たちを養うために、大人たちは、直視したくなくなるほどの過酷な現実を生きていた。仕事はないし、やっと仕事にありつけたとしても、賃金が恐ろしく安いので、最低限の生活を維持するためだけに、一日14時間もの長時間労働を強いられるのも珍しくない。そして、何よりつらいのは、未来になんの展望も無いことだった。このため、生きる意味を見失い、自殺する人がますます増えていった。

結局のところ、ネットワーク外部性の効果によって、高度な知識労働力が加速度的に集積し、富を生み出し続ける英語経済圏が、世界分業の一番おいしいところ独占することになったわけである。これにより、人口の少ない言語圏は、無惨な被害者となった。その被害者の典型例の一つが、インドヨーロッパ語族とかけはなれ、類似の言語のない孤立語であるために、英語の学習コストが格段に高い日本語経済圏だったのだ。

要するに、日本語経済圏は、富を生み出す椅子取りゲームで、敗北したのである。ゲノム創薬や各種の医療技術などの椅子、ソフトウェア産業という椅子、金融工学という椅子、そういうおいしい椅子は、すべて良質の知識労働力を前提とするものであり、言語の壁によって知識労働力の兵糧攻めにあっている日本は、それらをすべて英語経済圏に取られてしまったのである。さらに、インドや中国の台頭で急速に価値が上昇した石油をはじめとする天然資源の椅子取りゲームにおいても、日本は敗北した。日本は独自の資源を持たない加工貿易国だし、専守防衛の自衛隊しか持たない日本は、アメリカのように、強大な軍事力で守ってやることを交渉のカードにして産油国に取り入ることもできないからだ。憲法改正の論議はあったものの、結局日本の交戦権を認めるようなことにはならなかったし、そもそも、海外での実戦経験の乏しい日本の軍事力など、交渉のカードとなるほどのウリになるはずもなかった。

そして、日本の最後の砦である産業用ロボットや工作機械などの、機械を作る機械の産業や、トヨタやソニーや松下などのごく一部のグローバル企業が、かろうじて、日本を支えている。また、豊かになったアジア圏の人たちが、円安を背景に、大量に日本に訪れるため、京都や奈良、そして東北地方などの観光産業が台頭した。また、日本の伝統のさまざまな食材を生み出している伝統産業が台頭した。

ただ、その最後の砦である機械を作る機械も、中国の猛烈な追い上げで、今にも陥落しそうだ。結局、機械を作る機械というものは、現場からの太いフィードバックを糧として育っていくものだ。長期戦になれば、世界の工場と化した中国は、現場からのフィードバックに勝り、圧倒的に有利なのだ。日本の最後の砦が焼け落ちる日も近いだろう。また、世界的競争力のある日本企業は、その拠点の多くを英語圏に移してしまい、次第に日本からフェードアウトしつつある企業も多い。

結局、日本で一番地価が高く、潤っていて、今後も潤い続けるのは、京都や奈良などの、日本が誇る観光都市というオチになった。日本が最後まで守り抜くことのできた価値創造装置は、日本の古都やアニメの萌え文化など、文化に深く根ざしたものでしかなかったわけであるが、それだけでは、かつての日本の生活水準はとうてい維持できないし、少子高齢化で、金食い虫になった社会を養っていくことはできない。

そして、円安を背景に、日本の切り売りが始まった。いまや、日本の価値ある土地や建物で、英語圏や中国語圏の人間に所有されていることは珍しくもなくなった。風光明媚な土地に立つ別荘のうち、英語圏や中国語圏の金持ちの所有物のものも珍しくない。円安によって、彼らにとって安い買い物になったからだ。また、あちこちの高級ホテルや格式と伝統のある日本の古い旅館に泊まる客も英語圏か中国語圏の金持ちが多くなった。

広く、美しく、日当たりが良く、便利で、快適な土地、建物、そして、おいしい食材やレストランの客の多くは、英語圏と中国語圏からの旅行者でにぎわうようになった。日本人は、日本旅行をする金さえ無い人が増えていった。

いまや、老朽化し、赤さび色の水の出る水道、割れた窓ガラスを色あせたガムテープで補修した、狭くて日当たりの悪い部屋で、買い物に行く金もなく、旅行する金もなく、長時間労働で疲弊した体を、昼間でも薄暗い部屋で、ネットにあふれる無料の娯楽コンテンツで癒すだけの休日を送っている日本人は多い。彼らの主な娯楽は、すばらしい進化を遂げたはてなブックマークで脊髄反射的なコメントをつけることである。

そして、そんな暮らしの中で、ネットを検索する子供たちは、過去の日本を写した動画を見て、疑問を持つ。なぜこの世界は、こうなってしまったのだろうと。なぜ、世界は腐食してしまったのだろうかと。

そして、各種の保険などの金融サービスも、世界市場から調達される圧倒的に優秀な人材によってマネージメントされる英語圏の会社にとって代わられていった。日本の貧しい人たち向けの、安いだけが取り柄の、量産品を売る無人店舗は、外資系の優秀な人材チームで構成される会社によって運営されていた。単純労働は機械とソフトウェアシステムで置き換えられ、その高度な機械とソフトウェアシステムは、英語圏の知識労働者によって開発され、カスタマイズされ、オペレーションされていた。

そして、彼らのように英語を流ちょうに話せない日本人は、下っ端として、こき使われていた。愛妻家の白人の上司が、日本人の何十倍もの高給をもらい、欧米流の長期休暇を取って家族サービスをしている間、下っ端の日本人は、ろくに休みもとらず、必死で働いていた。そうしないと、簡単に首を切られるからだ。

結局、上位の意志決定は、英語圏にある本社と、本社から派遣された英語圏の知識労働者によってなされてしまう。言語の壁で、その経済圏の中枢に入っていけない日本人は、低い「身分」に押しやられるしかなかったのである。

いまや、言語の壁による兵糧攻めで、2百年前の帝国主義の時代に植民地化を免れた日本の幸運までが、ついに尽きてしまったかのようだ。



(私のコメント)
日本は歴史的に隣の大中華帝国と付かず離れずの関係できた。遣隋使や遣唐使などを派遣して進んだ文化を吸収して日本に取り込んできた。しかし大中華帝国が清の後期には西欧に後れを取り停滞するにしたがって日本も停滞してしまった。

明治時代になって蒸気機関の汽船が世界を航行するようになって、日本も西欧文明に接するようになり、日本の西欧化が進んで西欧の文明文化を吸収して日本は先進国の仲間入りに成功した。

「勘違い分裂君」によれば、中国やインドが西欧文明に立ち遅れてしまったのは言語に問題があるかのような指摘ですが、インドや中国は日本より早く西欧の帝国と接していたにもかかわらず、西欧の機械文明を取り込むことに失敗した。しかし日本は西欧の機械文明を消化吸収して機械力で欧米の武力と対等以上の文明力を持つにいたった。

インドやフィリピンなどは英語を公用語としているから、インターネットを生かして英語文化圏として一体化しようとしている。インドやフィリピンはそのことによってイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドといった国と一体化できるのだろうか?

他のヨーロッパ諸国も次々とグローバル知識労働流通圏に組み込まれようとしており、誇り高いフランスの政府高官もEU議会で英語で演説するようになってきている。一昔前のヨーロッパは知識人階級はフランス語を公用語としていた。

先日のNHKの特別番組でインドのソフトウェア産業を紹介していましたが、インドは世界最大の英語を公用語とする国である。にもかかわらず独立以来発展途上国のまま停滞していたわけは何だろうか? 中国にも言えることなのですが文明が停滞してしまった原因としては言葉の問題よりも文化や宗教などに原因があるのではないだろうか?

ソフトウェア産業などにおいてはプログラム用語が英語に準拠したものだから英語が有利なように思えるが数学的な思考のほうが重要だ。ソフトウェア産業はまだ立ち上がったばかりだから、多くの人的な労働者を必要としている。だからインドや中国のような人口の多い国が有利のように思える。

しかし機械工業などにおいても初期は確かに労働者を多く必要としていたが、ロボット化していくに従って労働者の数よりも質が問題になってくる。ロボットを制御するにはより高度な技術の蓄積が重要になってくる。だから英語が出来れば高度な産業が育つという問題ではないのだ。

私は電子専門学校で初歩的なプログラミングを教わっただけなのですが、ソフトウェア産業におけるプログラムを小説や楽曲に例えるならば、分かりやすいだろう。今は人海戦術で膨大なプログラムを書いているから安いプログラマーを大量に必要としている。だからインドや中国が有利だと思われている。

しかしプログラムも高度化していけばモジュール化されて少人数の高度なプログラマーで作品を作れるようになっていくだろう。小説家や音楽家は人口が多ければ有利とは言えないように、ソフトウェア産業も変わっていくからインドが有利とは言えないと思う。

むしろ家電製品がデジタル化されて行くにしたがって日本の独占状態が進んでいるのはどうしてだろうか? 独占すると風当たりが酷くなるから韓国や台湾や中国などに技術を供与して分散している状態だ。自動車なども機械と言うよりも電子機器に近くなって、ハイブリットカーなどは日本が独占している。

それらに使われているソフトウェアなどはインドや中国のソフト会社を使っているが、下請けに過ぎない。やはり最終製品を作っていないとノウハウは蓄積されていかない。だからマニュアル化された中低レベルの産業しか定着しないのではないかと思う。




バーナンキ現FRB議長も、日本や中国の投資家が米国債を
売れば、アメリカの投資家がこれを買うだろうと述べている。


2007年2月8日 木曜日

「陰」と「陽」の経済学―我々はどのような不況と戦ってきたのか リチャード・クー(著)

2 アメリカもカネ余り

アメリカも「バランスシート不況」であった

あのときのFRB議長はまだボルカーだった。グリーンスパンが議長になるのは、そのニヵ月後である。しかし、グリーンスパンがこのことを全く知らないはずはない。あの事件から十数年の間は、アメリカのこの分野の政策担当者はみな一九八七年に何が起きたかを覚えていたので、こういう問題に対してものすごく敏感だった。したがって、二〇〇五年二月にグリーンスパンが突然ドル安の容認につながるような発言をしだしたことを、私はすごく不思議に思った。

しかしグリーンスパンには彼なりの理由があった。なぜ彼があの時点でドル安容認の発言をしたかというと、実は二〇〇〇年以降のアメリカも一種の「バランスシート不況」に陥っていたからであった。アメリカの資金循環表(図表5-1)の非金融法人企業という線をたどると、確かに八○年代を通じてアメリカ企業はずっと資金不足の状態にあり、たくさんのおカネを借りていた。その結果、当時のアメリカの資金需要は逼迫しており、金利水準も高く、また日本の機関投資家が米国債を買ってくれるかということに、同国の金利は極めて敏感に反応していたのである。

九一年から九三年、前にも触れたようにアメリカでは銀行の貸し渋りが発生し、多くの企業は資金調達ができなくなって、図表5-1にあるように企業部門は無理矢理、資金余剰の状態にさせられてしまった。この銀行の貸し渋りでひどい目にあった企業はあまりにも多く、そのため、その後しばらく彼等は全くおカネを借りようとしなくなってしまった。

その後、ITバブルが発生し、また少し借りはじめる。ところが、二〇〇〇年にITバブルが崩壊したら、また彼等は借金返済に回った。バランスシートに問題が発生してしまったからである。直近の数字を見ても、アメリカ企業はまだ借金返済をやっていることを示している。

ということは、アメリカでも企業がおカネを借りない状況が、ITバブル崩壊以降発生していたのである。だからアメリカの長期金利は、この五-六年、極めて低かった。例えば前述のグリーンスパンの議会証言の時点で同国の長期金利は四%前半しかなかった。当時のアメリカ経済は、名目で五〜六%成長していたし、インフレ率も二〜三%あった。

また、大きな財政赤字、大きな貿易赤字を抱え、それに原油市況も一バレル五〇ドルとかなり高い水準に達していた。本来、それだけの要因がそろえば、アメリカの長期金利は七%か八%くらいに跳ね上がっていても当たり前なのだが、当時の長期金利は四%前半しかなかった。当時のアメリカの長期金利も同国の名目GDP成長率をはるかに下回っていたのである。

結局、アメリカ企業もITバブルの崩壊でバランスシートにかなりの被害を受けた。一九八○年代の日本のバブルに比べればスケールは小さいが、彼等もITバブルにのめり込んでいたために、バブルが崩壌すると彼等もバランスシートの問題を抱えたのである。

彼等はその後、集中的にバランスシート問題の解決に走り、二〇〇三年の終わりごろには問題をほぼ片づけていた。ところが、やはりバブルで火傷した彼等は、咋今の日本の企業経営者同様、その後もおカネを借りなくなってしまったのである。その結果、今の日本と同様、アメリカでも長期金利がなかなか上がらなくなってしまった。それどころか、アメリカの債券市場はあまりにも金利が低いことから投機的な動きが出はじめたのである。

クレジット・スプレッドの縮小の意味

アメリカには膨大な債券市場が存在し、そこで資金を運用している人たちが大勢いる。ところがこれらの債券ファンドの運用利回りが上がらないと、ファンドマネジャーは最終投資家からものすごい突き上げを受ける。最終投資家からすれば、経済の名目成長率が五-六%あるのに、彼等の資金を運用しているファンドは四%前半でしか回らない。ここから不満が出てくるのである。

しかし、彼等の主な運用対象である国債の利回りは確かに四%前半しかない。このような状況におかれたファンドマネジャーは、本当はやってはならないことをやる。つまりクレジット・リスクを取りにいくのである。国債だけなら四%前半しか取れないけれども、社債はそれよりも利回りが高い。社債を買って自分のポートフォリオに組み込めば、トータルの利回りは上がっていく。

そうしたファンドマネジャーの行動が活発になれば、社債の価格は上がり、社債の利回りがどんどん下がってくる。その結果、社債と国債の間の金利差であるクレジット・スプレッドもどんどん縮まっていく。

二〇〇四年当時は、グリーンスパンを含めてFRBの関係者たちは、このクレジット・スプレッドが縮まっているのは良いことだと思っていた。通常クレジット・スプレッドは不況色が強くなると企業の倒産の可能性が高まるので拡大し、好況色が強くなると縮小するきらいがあるからだ。

あのとき、アメリカのFRBは政策金利を引き上げており、それでもクレジット・スプレッドが縮まっているということは、マーケットが不況にならないと見ていると解釈できた。したがって、FRBはクレジット・スプレッドが縮まっているということは、自分たちの政策が正しいことの証だと考えたのである。

二〇〇四年の一〇月に私はFRBのエコノミストに会ったが、そのとき私は、「あなたたちの考えは、ちょっと間違っているのではないか。日本だってクレジット・スプレッドはものすごく低い。電子顕微鏡で見なければ見えないほど縮まってしまっている。これは、不況にならないとみんなが思っているからではなくて、民問資金需要が不足しているからだ。こうした理由でクレジット・スプレッドの縮小が起きているとしたら、油断できない。

これは将来、不況が起きないということではなく、実はマーケットがかなり投機的になっているということだからだ。クレジット・スプレッドが異常に}小しているということは、リスクに見合ったリターンになっていないということだ。そこを注意してくれLと言った。

FRBのエコノミストは私の指摘で、そのような解釈も可能であることにびっくりしていたが、そのわずかニカ月後から、FRBのトーンががらりと変わった。それまでは債券市場での低い金利やクレジット・スプレッドの縮小を高く評価していた当局が、そこから急に投機的要因が債券市場にあるという警戒的な発言に変わったのである。

投機的な要因があるということは、アメリカ全体もカネ余りで、行きどころのなくなったカネが債券市場でクレジット・スプレッドの縮小現象を引き起こしているということだ。

こういう現象が起きる背景には企業のバランスシート調整とその後の借金拒絶症があるわけだが、グリーンスパンは、このアメリカのカネ余り状況こそドル引き下げの歴史的なチャンスだと考えたのではないか。つまりこのような局面でアメリカ政府がドルのトークダウンに走れば、日本や中国の投資家はドル安を嫌気してドル債を売り、その結果、米国債の金利は上がる。

当時、長期金利は四%前半だったが、例えばそれが海外勢の売却によって四・八%になったとしよう。しかしそこまで金利が上がってくると、これまで無理して社債を買っていたアメリカ国内の投資家が、四・八%なら無理して社債を買わなくてもよいということで国債市場へ戻ってくる可能性がある。ここで実際に彼等が戻って国債を買いはじめれば、国債の利回り上昇はそこで止まることになる。

その結果、社債の金利が上がり、国債の利回りはそこそこのレベルで頭打ちとなる。社債の利回りがいわゆるリスクに見合ったリターンのところまで戻るのであれば、それは金利の正常化の一角であり、歓迎すべきことである。だからグリーンスパンは、あそこであんな発言をしたのではないか。

国債の金利が当時の四%前半から四・八%や五%になれば、社債市場に流れていたカネが再び戻ってきて、国債金利の上昇はそれで止まるということを言いたかったのだろう。実際にそうなれば、最終的な長期金利の上昇は○・三%とか○・五%といったモダレイトなものになる。

このように考えれば、アメリカ政府がドル安のトークダウンをした結果、日本や中国の投資家が米国債を売り、それでアメリカの金利が急騰し、アメリカ経済がおかしくなるというリスクは、バランスシート不況下ではそれほど大きくないということになる。

実際に、バーナンキ現FRB議長も、日本や中国の投資家が米国債を売れば、アメリカの投資家がこれを買うだろうと述べている。これは今のアメリカ経済の状況が、資金需要が逼迫していた八○年代とは全く違い、その違いがグリーンスパンをはじめとする昨今のアメリカ当局者によるドルのトークダウンを可能にしたと考えられるのである。

米国債保有残高割合のグラフ



(私のコメント)
最近ではドルと円が連動して動くようになりユーロの独歩高が目立ちます。円安だと騒がれていますが、1ドル120円は特に円安と言うレベルではないのですが、ユーロから見ればかなりの円安になる。円がドルと連動するようになったのは日本経済がアメリカ経済に組み込まれた事を意味するのだろうか?

外貨準備高から見れば日本はほとんどをドルで保有しておりドル一辺倒なのは異常だ。日銀ですら3割をユーロにしているが、外貨準備高としてはユーロはお付き合い程度だ。1ユーロが157円だから円買いユーロ売り介入してもいいのでしょうが日本には売るべきユーロが無い。

日本としては対ドルで安定していれば問題は無いという事なのでしょうが、EUとしては困る事になる。国の外貨準備として3割程度のユーロを持っていれば円買いユーロ売り介入も容易だろう。その為には手持ちのドルと米国債を売っていく必要がある。

しかし日本の財務省はドルの暴落を恐れて売りたがらないし、売るときは米財務省の許可がいる。しかしリチャード・クー氏の「陰と陽の経済学」によればアメリカも金余りであり、ファンドマネージャーも債券の運用に苦労していて、少しリスクのある利回りのいい社債などを買っている。

もし日本が米国債を売って米国債の利回りが上昇すれば、ファンドマネージャー達は利回りの良くなった米国債を買うだろうと書いている。その背景としてはアメリカの企業もバランスシート不況で返済を優先して借り入れ需要が減っている背景がある。

このような状況ならば80年代の時とは違って日本がドル買いを停止しただけで米国金利が上昇した時とは状況が違っているようだ。日本企業も円高になったときのことを考えて中国に工場を移して備えましたが、そうなると円は逆にじりじりと下げてきました。輸出企業は1ドル100円でも採算が取れる体制でいたのに120円では儲かって仕方がない。

ドルと中国の元はリンクされて円もドルとリンクされたように動いている。最近では中国がドル買いを一手に引き受けて外貨保有残高で日本を抜いてトップになった。ならば今のうちに日本はドルや米国債を売ってユーロなどの割合を増やしたらどうだろうか。アメリカも金がだぶつき運用難だから米国債の買い手はいくらでもいる状況だ。

日本政府はなぜドル売り円買い介入をしないのだろうか? 最近では円キャリートレードがその代わりをしてドルを買い、米国債を買い、住宅抵当証券を買っている。つまりアメリカのヘッジファンドは日米の金利差で商売をしている。ヘッジファンドが日米金融を一体化させて、彼らがドルを買えば円が売られるから円安気味なのだ。


【円・ドル・人民元】米中のバブル不安を緩和する円安 2月6日 産経新聞

(前略)
今回はどうやらジャパンマネーを駆使するヘッジファンドが安定装置になっているようだ。日本の金融機関から超低金利の円資金を大量に調達してドルに換え、高い利回りの米国の国債や住宅抵当証券に投資して利ザヤを稼ぐ。専門家はそれを「キャリートレード」と呼ぶが、安く仕入れて高く運用する商法である。日米間の金利差だけで年5%以上、さらにその円を大量に売ることで円安を加速させて為替差益を上乗せし、年10%以上の利回りを稼げる。

 ジャパンマネーの全容は不明だが、日本の金融機関が海外の帳簿を使ってヘッジファンドなど「非居住者」向けに短期で融通する資金は昨年11月末2兆4860億円の残高で同7月末に比べて2.7倍に達した(日本財務省の国際金融統計から)。この額はキャリートレードの一部でしかないが傾向はわかる。

 日銀の政策は結果として、ヘッジファンドに円の調達と円売りを誘っている。日米の金利差は昨年7月に日銀が「ゼロ金利」を解除したあと、縮小するどころか、逆にわずかながら拡大気味だ(グラフ参照)。金利差を背景に円安が加速し、日本企業の収益をかさ上げする。伸び悩む個人消費に代わって輸出が景気を引っ張る現実に味をしめた政治家からの圧力も強い。日銀の福井俊彦総裁は「利上げ」して金融市場を正常化したいのが本音なのだが、個人消費に勢いがないと強行するだけの動機に欠ける。結局ヘッジファンドを追認するわけだ。

 日銀はG7後の2月20、21日に開く金融政策決定会合で再び、利上げについて議論する。これまでは国内経済の動向からのみ金融政策を検討してきたが、日米金利差がここまで組み込まれた国際金融市場を無視できるだろうか。(編集委員 田村秀男)


(私のコメント)
もし日銀が利上げをした場合、ヘッジファンドは金利負担が増えるから返済しなければならない。去年のゼロ金利解除の時も途上国などの株価暴落が起きたが、日銀はよほど慎重に金利操作をしないと円キャリートレードの逆回転を起こしてパニックを起こしかねない。日銀が資金供給しているからアメリカや中国のバブル崩壊を防いでいるともいえるのです。

考えてみれば日本の1980年代のバブルは日本企業がスイスから超低金利の資金を調達して土地や株を買っていた構図が思い出される。それが90年のソ連崩壊でスイスの資金は東ヨーロッパの投資に行って日本のバブルは崩壊した。だからアメリカや中国のバブルが崩壊するのは日銀の金利の引き上げがきっかけとなるだろう。




事実を見れば竹中理論に忠実な人たちは財産を失い、
竹中理論の裏をかいたユダヤ人は大もうけした。


2007年2月7日 水曜日

対立する竹中平蔵氏と投資家の利害。  1月29日 山本清治

(1)竹中氏は金融担当大臣時代に、銀行に対して大口融資の即時回収を迫り、借金の多い企業を名指しでつぶせと主張した。そのとき売り一色で大暴落した株式と不動産をユダヤ資本が一手に買い向かい、大もうけした。

(2)その結果、上場株式の50%を支配していた日本の銀行、生損保が凋落し、外国人株主が25%を支配するに至った。

(3)竹中氏は現在も日銀の利上げに反対しているが、利上げは円安を招き、円安は外人による日本企業買収を誘発する。

(4)すでに25%を手に入れたユダヤ資本は、外国企業による買収に乗じて高値で利食いし、巨額の利益を回収するだろう。

(5)反対に竹中大臣に底値を売らされた日本の銀行と企業は株価が3倍に高騰した今、あわてて株式持ち合いを復活し、防戦に大わらわである。

(6)日本のエコノミストは皆竹中理論を持ち上げているが、ユダヤ資本は竹中政策の裏をかいて濡れ手に泡で大もうけしている。

(7)5年前に私は、竹中大臣に追いつめられた銀行と企業を買い推奨し、大きな戦果を上げた。また2001年には『不動産が値上がりする』(主婦と生活社)を出版し、今こそどん底の不動産と株を買うべきだと力説した。

(8)結果として私はユダヤ資本と同じ視点を持ち、ユダヤ資本と同じ投資行動を奨めたのである。

(9)事実を見れば竹中理論に忠実な人たちは財産を失い、竹中理論の裏をかいたユダヤ人は大もうけした。

ユダヤ人に学べ。

(1)ユダヤ人はユダヤ王国が滅亡して以来、3500年の永きにわたって世界各地を流浪し、迫害と追放に耐え、辛酸をなめた。

(2)その間、ユダヤ教徒であるユダヤ人はキリスト教徒とイスラム教徒が戒律によって禁止されていた金貸しを独占的に行い、今や世界の金融市場を支配する勢力を構築した。

(3)ちなみにイスラム教徒は現在も金利を厳禁されているから、イスラム金融は金利の代わりに手数料を取る。

(4)ユダヤ人の金融業は欧米で国家の中枢を占める巨大産業に成長した。ユダヤ資本はアメリカの大統領選挙の選挙資金の50%を拠出し、事実上世界を支配したと言っても過言ではない。

(5)ユダヤ人が3500年間にわたる差別と迫害の中で蓄積した知恵の深さに比べれば、竹中大臣やエコノミストがお勉強によって得た優等生の知識なんてたかが知れている。

(6)ユダヤ人は国家と国民の利益よりもユダヤ資本とユダヤ人の利益を優先するから、世界各地で激しい差別と迫害を受けた。

(7)しかしユダヤ人が世界の金融市場を制覇した現在では、ユダヤ資本の論理は世界の金融市場の論理となった。

(8)日本企業が外国資本の買収にさらされる状況は日本の不幸であるが、買収による株価の高騰は投資家にとってチャンスである。投資家はユダヤ人の冷徹な思想と手法に学ぶべきだと私は思う。


(私のコメント)
アメリカの大統領選挙は2年も先の話なのですがすでに有力な候補者達は名乗りを上げて全国を遊説している。これを2年も続けるのですから大統領候補は金がいくらあっても足りないのは間違いない。ユダヤ人たちは自分達に有利な候補者に資金援助して大統領に当選したら当然見返りをもらう。

アメリカは世界最大最強の軍事国家だから、その大統領を買収してしまえば世界を思うがままに動かせる。そのような事を露骨にやっているのがアメリカのユダヤ人達であり、アメリカの人口の3%足らずのユダヤ人がアメリカを動かし世界を動かしている。

古今東西、政治家を買収する事ほど見返りの多い投資はなく、日本でも政治家の買収スキャンダルはきりがない。どこの国でも政治家の買収はいけない事になっているが、選挙などで政治には金がかかるから買収スキャンダルは無くならない。

外交などにおいても相手国の政治家を買収してしまえば戦争などしなくとも勝利が得られる。日本は経済大国だからODAなどを有効に使えば国際政治大国になれるはずなのですが、日本政府は買収はいけない事としているから、いくら途上国を経済援助しても国連の常任理事国にもなれない。

日本も外交においては買収は金銭を使った戦争だと認識して取り組むべきだ。まず第一にすべきはアメリカ大統領候補を買収する事であり、ヒラリー・クリントン候補も金で買収すべきだろう。在米の日系企業や従業員を使って献金すれば大統領候補の4人や5人買収する事などわけはない。

日本がそうしなければ中国が買収して親中派の大統領が誕生してしまう事になる。ビル・クリントン大統領の時も中国の買収資金が動いたとされている。それと同時にアメリカのマスコミも買収して反日的な記事を書かせないことも重要だ。明治時代は日本もこのようなことをやって成功していた。

もちろんアメリカでは買収は厳しく取り締まられているからかなり巧妙に行なう必要があり、ユダヤ人たちはイスラエルのモサドなども連携して活動しないと出来ない事だ。クリントン買収した中国も公安を使って買収したのだ。しかし日本にはそのような秘密情報組織は無い。

日本の政界はアメリカと中国とに買収された政界幹部が活動している。佐藤内閣の頃まではCIAから自民党に金が渡っていたが、田中内閣時代から中国との国交回復で中国からの資金が自民党の経世会中心に資金が渡るようになった。もっとも中国の場合は日本からのODA資金のキックバックが主体だった。

小泉内閣の誕生にもCIAの影がちらついて小泉首相のライバル達は相次いで失脚か引退が相次いだ。金も当然動いているだろう。アメリカはその見返りに竹中平蔵を閣内に送り込んでインサイダー情報をアメリカ外資にもたらしてぼろ儲けさせている。まさに豚は肥らせてから食うのが彼らのやり方だ。

このように政治家を買収する事はもっとも合理的で効率的なのですが、政治モラルも地に落ちて政治が限りなく腐敗して国が乱れる元になる。アメリカはイスラエル・ユダヤロビーに買収された事でイラク戦争に突入してしまった。さらにイランへも軍事攻撃をするように圧力がかかっているようだ。

アメリカ国民もブッシュ政権やアメリカ議会がイスラエル・ユダヤロビーに買収されている事に気がつき始めている。それがアメリカに対して大きな災いをもたらしすならば、イスラエルやアメリカのユダヤ人に非難の矛先が向かう事になるだろう。

日本政府からも異なる形でアメリカに賄賂が渡っている。米軍に対する思いやり予算とか米財務省に対する国債の購入などが日本の安全保障に役立つと判断しているからですが、数千億円もの金でそんな事をするよりもブッシュやクリントン個人に賄賂をやったほうがはるかに少ない金で済む。

小泉首相や竹中大臣はアメリカに命ぜられるままに郵政民営化法案を成立させて340兆円の郵貯資金をアメリカ資本に解放した。なぜ二人は日本の国益に反する事を行なったのだろうか? アメリカからは5000億円もの資金が投入されたという噂があるが、5000億円で340兆円が手に入ればこれほど効率のいい投資はない。

もはやユダヤ人たちの金融業は世界を支配するほどになっているが、彼らのやり口は常に裏工作によって巨万の富を獲得してきた。民主主義選挙制度は金のかかる制度であり、そこにユダヤの金貸しが介入すれば政治を支配する事ができる。日本の政治もすでにユダヤの金貸したちによって動くようになってしまった。

金融業といえば聞こえがいいが、金貸しと詐欺師が合体したような産業であり、だからこそユダヤ人は嫌われるのですが、日本人はユダヤ人よりも頭が良いのだから彼らのやり方をまねればアメリカを思うままに操れるだろう。

ゴールドマンサックスなどはアメリカ政府の威光を楯にインサイダー取引でも取り締まられる事はない。ホリエモンや村上ファンドのような小者は検察にしょっ引かれるが、リーマンブラザースやゴールドマンサックスが同じ事をやってもお咎めなしだ。政府丸ごと買収すれば金融業はこれほどぼろい商売はない。




「いま本当の危機が始まった」 日本社会は「リーダーの国際競争
力」という点で甚だしい欠陥をかかえていると言わざるを得ない。


2007年2月6日 火曜日

いま本当の危機が始まった 中西輝政(著)

欧米エリートたちのもつ『果敢さ」

それはイギリスに限ったことではない。たとえぱ長く海外貿易で覇を唱え、近世初頭のヨーロッパに大きな影響をもった都市国家ヴェネチアの例を見よう。この国はむしろ実力主義の伝統の中にいかに指導的階層を選びだしてゆくかということに苦心した国である。

ヴェネチアのエリートはみな、若い頃に海外に出かけて貿易に従事する。オリエント地方、黒海、ウクライナからエジプト、北ヨーロツパ、アルプス以北などまったく文化の違うところで修羅揚をくぐる。こうして貿易の代表者として実地の試練を経た人の中から国会議員をリクルートしていく。単に学歴や出自ではなく、将来のエリートには荒々しい修羅場を率先してくぐらせる。

大英帝国も、次世代のリーダーと見込んだ人物に対して厳しい試練を課している。植民地官僚としてインドの砂漢や東南アジアのジャングルに送り込んで、たった一人で、誰の指示も受けずに、予測もできないような混乱の事態を切り抜けていく経験を積ませる。

大正期や戦後教育型エリートの、いわゆる「二代目」が、前の世代に比べて矮小になり大きな歴史観や国家観をもてない、さらには知的には大変すぐれていても使命感という点で問題があるような人物がしばしば現れるのは、試験や選挙といった最初の競争の関門があまりにも厳しすぎるという点にも目を向けないわけにはいかない。

欧米の例を見てゆくとき、いったんある程度大まかに選択した階層の人たちに、さらに繰り返し一層厳しい試練を課す、というのが国家的リーダーの育成として大切なように思われる。しかし日本の場合、これが逆転してしまっている。

この「第二世代の失敗」に共通しているのは、最初の競争システムをくぐり抜ければあとは比較的平穏なキャリアプロセスの中で、人脈や人当たりのよさ、トラブルメーカーにならない、そういう信用だけでもって安易に高いポストに順次つけていく。少し安定期を迎えるとこのような人事システムが固着しやすいというこの国のあり方にこそ、日本が真の大国になれない歴史的要因の根幹があるように私には思えてならない。

現代のアメリカのエリートシステムをみよう。ここでも一定のエリート階層をまず先に選び、この人たちに集中的に試練を課して、そこからはい上がってくる人物をさらに厳しい競争ののち、国家的なトップリーダー層の中に引き上げていく。そればかりか、そもそもアメリカ東部のイェール、プリンストン、ハーバードといった大学では、そこに学ぶ学生には、自分たちこそ二十年後のアメリカをリードする人間、という意識をはっきりもたせて教育している。

学生の側もはっきりそういうエリート意識と使命感を当然のこととし、その日に備えて勉学にいそしんでいる。イギリスでもオックスフォードやケンブリツジでは二十歳そこそこの学生が、早くから下院議員をめざし、あたかもすでに次代の国のリーダーとして、ある政策課題をどう決断すべきかについて、厳格な雰囲気の中で自らの人間性と専門的な知識をもとに、毎週のように活発な議論を交わしている。

突き詰めていくと、リーダーの育成ということで言えば、日本社会は「リーダーの国際競争力」という点でつねに甚だしい欠陥をかかえていると言わざるを得ない。かつてのヴェネチア、あるいは大英帝国、いずれも長い海洋貿易に経済の基礎を置いて発展してきた国である。

世界が予測できないような外界の環境変化に対して、大国のエリートとしていかに果敢に取り組まねばならないか。その「エリートの果敢さ」ということに、国の運命がかかっていることを切実に思い知らせるような制度と文化を築いていた。

そういう国には最初の競争で疲れてしまうようなひ弱なエリートはいない。大まかに網ですくい取った優秀な人材に繰り返し冷酷な試練を課し、その都度、資質を向上させ、その可能性にかける。エリートの育成に苦心し、試行錯誤を重ね、そして一つのカルチャーを作り上げた大国の、人材育成に対する国家としてのすざましい執念と徹底した合理的な物の見方を、日本はなぜか明治以来、学んでこなかった。

ここまで見てくると、現在の日本において足りないものがあまりにも大きいことを強調せざるを得ない。そしてここで特に強調したいことはその際、この国の主流派のエリートは、やはりこの国の文化の型に見合ったリーダー像をしっかりと伝えられてゆくべきだ、ということである。

日本の「自然主義的」な、つまり日常は放任しつつ、たまたま運のいい者をその「ツキ」に期待して、「出たとこ勝負」としか言えないようなエリート登用の「すごろくシステム」では、もはや事態は打開できないであろう。

「庶民の立場」とエリート

もう一つ日本に欠けている大事なことは、「対抗エリート」という考え方である。日本人のエリート観というのは「主流エリート」という一つだけに限られがちで、それは民衆と対時する存在としてのエリートである。しかし、そういうパワー・エリートに対して、対抗エリート、あるいは「異端のエリート」を社会が大いに尊重し、立派な使命感を育むことが非常に大切なのである。

民衆は、いわゆる民衆としての存在のままでは本来、何の力にもなり得ない。「エリートに対抗する民衆」という存在を考えたとしても、もっぱら革命のイデオロギーに依拠しないかぎり、ただの民衆からは何も生まれない。

そこでは必ずその民衆を指導するリーダーが生まれなければならない。日本の場合しばしば「民衆の感覚」と又トレートに同調してしまう未成熟な対抗エリートしか生み出せず、したがって民衆と同じレベルの「反体制リーダー」しか育たないことになる。

それでは、今後の日本のリーダー像を描く上で具体的に何が必要なのか。日本では、「これからはこうなる」とか「世界はこうだ」という一面的な趨勢論にいわゆる国論が収斂していくことがしばしば見られる。そうした場合、歴史的な洞察やより大きな視野と伝統的な視点から、逆に国全体のかじ取りにさまざまな批判をし、、代替策をぶつけることのできる人間が階層としてどうしても必要である。

戦後の日本は、特に戦後の左派リベラリズムの非常にゆがんだ発想から、そういうリーダーの存在というものをまったく視野の外に置いてきた。それゆえに、民衆が「庶民的感覚」からストレートに支配エリートや本流のリーダーたちを批判することが民主主義だと思い込んできたふしがある。ここに、日本では建設的な議会政治が成り立ちにくい構造がある。

議会というのは、エリートともう一つのエリートの集団のそれぞれの側のリーダーが、お互いにリーダーとして意見を闘わせるところである。代議制というのは、まさにここに意味があるわけだが、野党政治家、特に日本の左派やリベラル陣営さらには大マスコミには、いわゆる「市民的感覚」から、あるいはストレートに「庶民の立場」に立って考える、ということだけが民主主義における政治家の使命だと思っている人たらがあまりに多い。

さらに言えば、今、日本政治で最も問題になるのは、戦後の誤てる民主主義理解の中で教育を受け、その価値観や政治観、歴史観をそのまま身につけた世代が、保守の陣営においてもいよいよ日本のトツプに躍り出ようとしていることである。これは保守の側においては、とりわけ「危うい境界の時代」と言わねばならず、その先に、実に「危うい日本」の構図がほの見えている。

国家的見地と民衆の意向というものが、歴史においてはしばしば対立することがある。「民意の政治」というものが本来的に民主主義なのではない。なぜなら民意はしばしば間違うことがあるからだ。このことをしっかりと念頭に置くことが民主主義の出発点である。

それゆえ国家的な見地から、つねに世論の大きな潮流、あるいは時の政治の潮流に対してさえ、あえて大勢に抗するような、いわぱ「国家の番人」のような人間や集団を制度として民主主義の中にもっておくことがきわめて大切なのである。

しかし、この民意や世論に対してたった一人でもあえて抗することのできる、本質的な意味の「保守の最後のよりどころ」のようなものを、制度的ないし集団的に戦後日本の民主主義はもたなかったし、また、そういう営みが重要であるという認識すらなかった。

民主主義の長い伝統をもつ国はどこの国も、必ずときの民意にあえて抗することを務めとし、大きな歴史的な視野から国家のあり方を考えることを杜会全体から期待されている集団や制度をもっている。

たとえばイギリスの貴族院(上院)や、あるいはアメリカの上院(元老院)などだ。しぱしば大きく間違う世論や民意に対して、敢然と「ノー」を唱えることのできる階層や機構をつねに用意していなければ民主主義は完結しないのである。

それは通常の民主的な選挙によって選ばれる代表では到底果たし得ない役割である。たとえばこれら各国の上院はいずれも選挙を経ない世襲か、あるいは制限選挙によって(アメリカの場合、人口に関係なく各州から二名ずっ)選ばれている。ときの民意にあえて抗する、だからこそ真の意味で「良識の府」だと言えるのである。

また欧米では、世論もマスコミも、大きな時代潮流にあえて抗する意見を述べる評論家や学者に対して高い評価を与え、歴史的にもそういう文化が根づいている。だからたった一人でも自らのリスクをかけ、あえて異論を唱える知的リーダーが出てきやすいのだ。日本のように時々一つの目標に向かって極端な視野狭窄の集団心理に陥ることがある国柄では、このような制度やリーダーの存在は欧米に比べて何倍も貴重なはずだ。

そういう人材をどう養成していくのか。その前にまず、そういう人材が日本の民主主義のためにどうしても必要であることを、国民自身が認識することが大切だろう。我々は国家のリーダーと言えば、すぐにステート・リーダー、つまり国の統治機構や巨大産業のリーダーだけを思い浮かべがちだ。

しかし今考えるべきことは、日本という国を単位とする「カントリーとしての日本」のリーダー、組織やポストに依拠するのではなく、その能力と義務感にのみ依拠するカントリー・リーダーという存在を我々は視野の外に置いてきたのである。

また国が国として間違わない進路をとるためには、国民の精神状況や文化のあり方に警鐘を鳴らし、それを本来の正しい方向に導いていこうとする真の意味での知的リーダーが必要でもある。上述の通り、日本のリーダー文化にはこういう精神面のリーダーに対する深い思考にも欠けているようだ。

その場合、国民の心を一つにし、歴史を動かすリーダーの資質としてやはり「言葉の明晰さ」が不可欠であろう。よく日本語はあいまいではっきり物を言わない文化と言われるが、しかしそれは間違った議論だと思う。言葉という手段の中に込められた精神性、感受性という点にむしろ日本の文化の重要な特質があると私は思っている。 (P326〜P333)


(私のコメント)
最近目につく事は政治家も企業人も自分の事ばかり考えて事件を起こすような事が増えています。政治資金を私的に流用したり、会社でも利益さえ上げればいいとして不二家や日興コーディアルのような事件が起きたりしている。いわば日本のリーダーとしての自覚がなくエゴイスティックな風潮が蔓延している。

政治家にしても日本はどうあるべきかと言うことよりも利権漁りに夢中になっている。以前は政治家がダメでも官僚がしっかりしていたから何とかなっていたのでしょうが、最近は官僚こそが自分の天下り先を確保するのに夢中で天下国家のことを考えなくなった。なぜそうなってきたかと言うと戦後教育が国家を支えるようなエリート教育を平等と言う名の下に廃止してしまったのだ。

最近ではマスコミの行なう世論調査などに振り回されているように思う。しかしその世論は一体誰がリードしているのだろうか。昔は民間の評論家でも大宅壮一や藤原弘達のような怪物評論家がいたが、現代では皆小物ばかりになって政界の提灯持ちばかりになってしまった。

最近では大学生でもサラリーマンでも誰も政治の話はしなくなり、当たり障りのない世間話しかしなくなっている。そのような状況で国民に世論調査をしたところでテレビのニュースキャスターが言っていたような事をオウムのように言うだけの知識しかない。国民大衆はそれでよくてもエリート達もそれと対して変わりがないのでは問題だ。

ネットの世界でも多くの人がブログを書くようになりましたが、お粗末な内容のブログがあまりにも多い。作文能力もなければ語彙も少なく、本も満足に読まないから一般常識が身に付いておらず、古典などの教養も読んだ形跡がない。現在の日本の大学はレジャーランドであり、大卒者の学歴は溢れかえっているが日本の大学の学歴は紙切れに等しい。このままでは中国にも負けるだろう。


新春教育座談会「今こそ、真のエリート教育を」

人材輩出できねば「知的二流国家」に 

岡崎 日本は残念ながら必ず教育で中国に負ける日が来る。中国人の勉強力は今すさまじい。江戸時代に「学ならずんば死すとも帰らず」として、新井白石が眠くなったら水をかぶって勉強したという、あれほどの意気込みで中国人は勉強しています。しかも、人口が日本の十倍であり、その中から選ばれた人たちが出てくる。

 例えば、中国の大学の日本語学科で勉強して来日した中国人の日本語レベルが大学生並みであれば、ハーバード大学の日本語学科で学んだ日本語の学力は、中学生程度です。水準になるものが全然違う。この日本語学科のレベルから他も類推してよいと思います。他の学科も相当な水準です。

 ただ、今、中国の問題は文化大革命の空白があって、その人たちがいるのでまだ日本が太刀打ちできています。しかし、今の若い人たちが社会に出てきたら、日本は絶対かなわない。だから日本には昔の七年制高校と同じような、教養を深める学校が必要です。私は、例えば、東京工大に付属中学高校を付けることがよいと思う。生徒は中学に入った後は、受験の心配がないので、その間、ものすごい教養を身に付けますよ。それも、東工大だけそれをやれば、全国の秀才が受けます。

 七年制高校の時、四十人クラスが二つで一学年に八十人しかいなかった。あのころは、一高受験というのは、一高の人には怒られるかもしれないが、敗者復活戦だった。七年制高校には、都内の有名小学校の一番だけが入った。私の小学校でも、一番が七年制高校に入って、二番から四番までが府立一中を受けた。そこを卒業して、もう一度試験を受けて一高に入ったからだ。旧制高校のナンバースクールは敗者復活戦という時代になっていた。

 どこかでそうした試みをしていけば全国から秀才が集まります。秀才を集めると教育は楽だ。それくらいのことをしないと、中国にかなうわけがないですね。中国で唯一弱みがあるとすればガリ勉です。この中国に対抗するには、余裕のあるエリート教育によって人材をつくらないと、日本は必ず負けます。三十年したら日本は知的に二流国家になります。知的二流になったら中国に頭を下げるしかないでしょうね。




この事件の本質は、金子氏が、旧日興証券を外資に売り渡し、
米流経営という名の無責任体質を、日興に蔓延らせた事にある


2007年2月5日 月曜日

マスコミが報じない 日興不正会計処理事件の本質(上) 1月24日 週刊メールジャーナル  

日興コーディアルグループの不正経理事件で、調査する証券取引等監査委員会や山本有二金融担当相が怒り、証券関係者やマスコミの取材記者が呆れたのは、社員一人の責任にして、自分たちは逃げ切りを図ろうとした金子昌資会長、有村純一社長ら経営陣の無責任体質だった。

 誤解されることを承知でいえば、日興コーディアルが行なった不正な会計処理は、それほど大きな問題ではない。

 日興の孫会社であるNPIホールディングス(NPIH)を連結決算対象とすべきであったか否か――ファンドの売却益を利益に取り込んで決算を粉飾したライブドア事件との連想から、「不正処理」の印象が濃いことは確かだが、この操作を他社株転換債(EB 債)発行にによるリスクヘッジと考えれば、当時の会計基準に則ってもいるわけで、「刑事事件に相当するような悪質な操作」とはいえない。

 もちろん日興コーディアルとしても法的側面を、弁護士や公認会計士を入れて慎重に検討したわけで、たとえ証取委が特捜部を巻き込んで「一罰百戒」を狙ったとしても、立件は難しかっただろう。

 この事件の本質は、証券スキャンダルで「棚ボタ社長」となった金子氏が、旧日興証券を外資に売り渡し、米流経営という名の無責任体質を、日興コーディアルグループにはびこらせてしまったことにある。

 生き馬の目を抜く米シティーグループは、投資銀行部門の日興シティーグループ証券に集中、採算性の低い日興コーディアル証券から手を引いた。 その結果、日興コーディアルグループはどうなったか。同社元経営幹部がこう嘆く。

 「金子―有村体制のやったことは、三菱グループとの縁を切って外資に身売り、リストラに励んで社員のやる気を削ぎ、組織をバラバラにして『オール日興』としての連帯感を失わせたことです。

 その結果、顧客とともに繁栄するという気概、社員の会社への忠誠心、証券市場のメインプレーヤーとしての誇りが失われ、損得勘定ばかりが達者となり、判断基準は法令に違反しているか否かという、わびしい会社になった」

 そうし指適されれば、今回の対応も理解できる。証取委が、昨年12月18日、5億円の課徴金支払を命じるよう金融庁に勧告、それを受けて記者会見した日興コーディアルグループは、子会社の日興プリンシパル・インスツルメンツの担当社員が、「不適切な手続きをしたうえに事実を隠していたため」であり、さらにその決算操作は、「社員がミスを隠す為に書類を偽造したもので、意図的な利益の水増しではなく、組織ぐるみでもない」と、説明した。

 問題はそれが事実かどうかではない。こんな説明が通ると考えられる、経営陣の認識に救いがたい病巣がある。

 おそらく金子会長、有村社長にあったのは、「違法な決算処理に自分たちが関わっていたわけではない」という意識だろう。

 「ルール(法)」さえ遵守していれば、「モラル」を犯しても構わないというのは、堀江貴文被告や村上世彰被告と同じであり、大手三社の一角として、「証券市場の守護者」でなくてはならないという使命感のなさに驚かされる。

 これが金子―有村体制のいう手前勝手な米流経営であり、「いいとこ取り」をする二人は業績連動報酬を採用、豊富なストックオプションも含め、「富を経営陣が山分けする」という経営形態に変えていた。

 経済マスコミの多くは、こうした日興コーディアルの変化に疑問を呈するどころか、個別報酬の開示は透明性を高めるとともに、業績連動は経営陣のやる気を鼓舞するとして、前向きに評価していた。

 だが、結果として日興コーディアルにもたらされたのは、社員に責任を押し付けて恥じない経営陣のモラル低下と、その経営陣が報酬を先取りする子ずるい体質である。

 さすがに監督官庁からマスコミまでの批判に耐えかねて、金子ー有村体制は崩壊したが、事件はこれにとどまらない。

 この体質が事件を誘引したとするならば、「高い報酬を維持しようと利益の上乗せを指示した」という可能性だったのである。それは、両経営者の特別背任にもつながりかねない。

 実際、カネの亡者と化したような金子会長、有村社長が、利益を個人的に取り込もうとしている形跡は随所に見られる。

前号の「不二家事件解説」でも、日興コーディアルの不正会計処理を、経営 姿勢の問題として例示したが、その経営姿勢が端的に現れるのが「部下や従業 員への責任転嫁」である。

好業績は自らの功績とし、事故や不祥事の責任は部下に押し付ける、こうし た“上目遣い”の幹部が経営者に認められ、やがて経営者になると、会社全体 に連鎖反応が起きる。

成果反映型の給与体系が行き過ぎても、同じような連鎖反応が起きるが、こ うした会社が、事故隠し、不祥事のもみ消し、見せ掛けの利益計上、粉飾決算 などを起こしやすい。その意味では、昨今の企業不祥事は「氷山の一角」とい える。(後略)



マスコミが報じない日興不正会計処理事件の本質(下)

金子ー有村体制が行なったのは、大胆な機構改革とリストラ、資産の売却、 シビアな成果主義の導入である。ベテランも新人も給与を一列に並べ、成功報 酬という果実で尻を叩く。

信賞必罰は悪くないが、そのため社内では会社への忠誠心、仲間との連帯感 が失われ、「自分さえ良ければいい」という利己主義がはびこり、それが結果 的に野村や大和に水をあけられ、振り返るとすぐそこに銀行系証券会社が迫る 業績につながっている。

また企業業績を役員報酬に連動させ、それを開示すると03年度決算で発表。 一部マスコミは快挙と報じたが、それは結局、高報酬に理屈づけをしただけで あることは、社宅を含むすべての福利厚生施設を売却しておきながら、有村氏 自身は会社のカネで、「施設」という名の「社宅」に住んで恥じないところに 証明されている。



(私のコメント)
日興証券といったら日本の四大証券会社の一つでしたが、山一證券が倒産して、1月31日付で日興コーディアルグループの上場廃止が決定されました。まさに銀行、証券、保険と金融業界はビックバンの嵐に巻き込まれています。日興グループはすでに外資系証券会社になっていたのですが、シビアな成果主義の経営を取り入れていたのですが、今回の金融不祥事を起こしてしまった。

今回の日興の事件はライブドアの事件によく似ていますが、企業の規模も従業員の数も一桁違うので、与える影響は一桁違う事になる。ライブドアの事件も新興株式市場に大きな影響を与えたから、日興コーディアルもどのような影響があるか分からないが、マスコミはライブドアの時とは違ってあまり報道しない。

しかし事件を考察していけば日興証券が外資に乗っ取られて、成果主義が導入されて、経営モラルが低下して経営者も自分さえ良ければいいと言った無責任経営が蔓延している。小泉構造改革では外資を導入する事で企業の構造改革を進めようとしているが、ハゲタカは美味しいところだけを摘み食いしていってしまう。

ライブドアにしても日興コーディアルにしてもトップの経営者のモラルが低下してはこのような金融不祥事は続発するだろう。野放図な規制緩和と自由競争が行き過ぎれば、結局は企業の体力を低下させて行くだけだ。株式日記ではこの危険性を警告してきたのですが、外資の手先がネットの世界にも沢山いるから気をつけるべきだ。(小泉信者達よ反省しろ!)


7割はジャンク、米国企業のお寒い現実 2月5日 神谷秀樹

(前略)
基本的にはこれも、私が本コラムでたびたび指摘している「強欲資本主義」の産物だと思う。日本企業は、もちろんこの悪癖をマネしないことだ。強欲資本主義とは、投資ファンドなどが収益優先主義に走り、投資先の企業を活性化するどころか、逆に食い物にしてしまうことがはびこる姿だ。

例えば、投資した企業に多額の借り入れをさせて、その資金を自分たちのフィーとして徴収して、自分たちはさっさと売り抜けてしまうといったやり方などは、以前の記事で紹介した通り。なぜこうした“悪行”がまかり通るかというと、

 1つは、借り入れの方が資本調達に比べて、コストを抑えられるからだ。借り入れによって発生する利払い費用は収入から控除されるので利益を増やすが、配当は税引き後利益から配当する。このため、借り入れの方が手元に残る資金は多くなる。

 このメリットを利用して、レバレッジド・バイアウト(相手先資産を担保にした借り入れによる買収)に投資するファンドは、M&A(企業の合併・買収)の際に投資リターンを高めるため目いっぱい借り入れる。

 ファンドの投資家も世界的に低金利が続き、少しでも金利水準の高い債券に投資しようと考え、資金を供給する。その結果、資金を潤沢に持つファンドが急増し、M&Aが拡大する。そのM&Aの当事者の中には、ファンドに食い物にされるところもある。

 投資銀行は借り入れ余力がある企業にはドンドン借りさせ、他企業を買収させ、取引が起こるように仕向ける。例えば、最近ではこれまでほとんど借り入れをしてこなかったハイテク企業にまで借金をさせている。一言で締めくくるならば、企業経営者は株価の急速な上昇を欲し、投資家も高利回り(欲)のために、節度(慎重さ)を失って信用リスクを取っているのだ。

 もちろんファンドだけが欲にまみれているわけではなく、投資先の事業会社にも改善点はある。事業会社の経営者も1株当たり利益や高配当を重視するあまり、借入金を増やして、自社株買いや配当しているケースもある。

 そうした企業の経営者は格付けより、株価を重視しているが、それは株主のためだけではなく、株価が上がればストック・オプションの価値が高まる、といった動機もある。これもジャンク債を増やしている要因に挙げられる。





夕張市の財政破綻が宮崎県知事選でそのまんま東の当選に
つながった。国は地方の財源を「保障」はするが「保証」はしない。


2007年2月4日 日曜日

<Vol.244:夕張市の財政が象徴すること(1)> 1月31日 吉田繁治

こんにちは、吉田繁治です。夕張市の「財政破綻」としてシンボリックに現れた地方財政の問題について、書こうと思います。わが国行政の象徴としてです。

夕張市は、行政の借金の累積(630億円)を、12,800人の市民へ「つけ」として回す典型例です。夕張市の人口は、1960年10.8万人から8分の1に減っています。(注)1957年以降、財政再建団体に指定されたことがあるのは、288の自治体です。

そのまんま東氏が、宮崎県知事に当選した機会です。地方自治を知らない素人として、地方財政問題に迫りましょう。

東国原氏が、元林野庁長官の川村氏と7万票の大差で、まさかの勝利を収めた理由は、「政治、既存政党、行政」への不信です。

認識を新たにしました。日々の、感想も述べたくない嫌なニュースの連続に、「今の体制は、どうしようもない。風穴をあけてくれ。」と憤(いきどおり)りをもつ人が過半数になった感じです。

今年の統一地方選、参院選でも思わぬ波乱が起こるだろうことも、確実なこととして想定できます。

バブル崩壊直後の1992年、細川護煕氏の日本新党が支持を受けた時の空気に似ています。期待は、ビールでなくワインで乾杯するイメージだけに終わりましたが・・・

本稿で示すように、夕張市の例は、どうにもならなくなって現れた氷山の一角です。おそらく、全国の3170自治体のうち70%は、人口が急減してきた夕張ほどではなくても、似ています。総務省も自治体(都道府県、市町村)も、これをひた隠しています。

住民は、自分が借金をし、あれやこれやに使った覚えはない。しかし、過去の行政の成果も失敗も、両方を引き受けねばならないのが、町に住んでいる人です。

地方財政の問題は、総務・民生・衛生などと古ぼけた行政語、概念、数字の曖昧さがあり分かりにくい。

主権をもつはずの住民に内容を知らせようとする熱意でなく、分かりにくくすることに心を砕いてきています。当然に、行政の条件であるアカウンタビリティ(会計的説明)の責任は果たしていない。

内容のひどさを住民が知れば、責任を問われると感じた震えからでしょう。

ちまちました裏金や不正は、誰にも分かりやすい。しかし自治体の累積赤字の罪に比べれば実は小さい。(注)裏金は業務上横領で刑事事件になるはずのものですが、検察はなぜ動かないのか。皆でやれば犯罪ではない? こうしたところにも検察の恣意(しい)が見えます。

<ともかく(自治体の実質公債比率の)数字が、外に漏れてはマズイ・・・この数字が公になると、地方債の信用度が下がってしまいます。(総務省の担当)>

国民が実態を知れば、ひどい内容なので金融市場が驚き、金利が上がる。だから知らせない。これは、考えが逆転しています。

粉飾は、民間では経済犯です。地方財政の赤字の内容が知られれば地方債が嫌われ、金利は上がる。だから知らせない。それによって、地方債の金利を低く保つ。

これは「204兆円の地方債を買った人や機関の所得」を不当にかすめとる行為です。1%で1年2兆円の経済犯。エンロン以上です。

実際、地方債の発行について、市場からのチェックをさせなかったことが、地方債の発行を続けさせ、今の自治体の財政の窮状につながっています。

財務省(国)は地方の財源を「保障」すると言いますが、実は、保障は大方の人が思っている「保証」とは違います。

保障は、監視して指導することです。保証は、弁済できないときは代わりに弁済の義務を負うことです。言葉は似ていますが、中身には天地の違いがあります。地方の財源について、国は保障していますが、保証はしていないというのが財務省の統一見解です。

ここにも、官僚的に姑息(こそく)な、言葉の言い換えがあります。保障と保証の違いを知れば、204兆円に増え、これからも1年で14兆円くらいは増える地方債を保有している金融機関は、どう反応するでしょうか?

地方のひどい財政内容が公開され、金融市場からのチェックで地方債の金利が上がり、市場原理で発行制限が加わるなら、膨大な赤字をつくっている無駄な事業は行うことができなかった。

個別事業の、フィージィビリティ(実現の確証)のある、採算計画が求められるからです。

借金は、相応の金利を払い、税収から返済をしなければならないという考えがあれば、ここまでの地方財政の悪化も防ぐことができた。借金は期限が来れば返済するのが、普通の考えでしょう。

赤字のつけまわしで、夕張市のように、あとで住民が苦しむ事態は避けることができたのです。

知らせるのは義務です。しかし、いつも、隠そうとする。

地方自治は、決して面白い話題ではない。言葉からして地味です。しかし正確に見てゆけば、面白い。憂鬱になるのではなく、正面から見つめることです。


(中略)

■4.夕張市の財政状況を要約すれば

多少面倒ですが、正確に見るため、夕張市の財政状況を見ます。

単式簿記の行政は、収入を「歳入」と言っています。税金収入も借金(公債発行+他の借り入れ)も、同じ歳入です。

まず、この「歳入」という概念に問題があります。歳入は、市(行政)の金庫に入る現金という意味です。

企業では、売上収入は収入と言います。借金と収入は別枠であって借金は負債です。負債は、いずれ返済せねばならない。

家計簿でも所得と負債の区分くらいはするでしょう。小学生でも分かるマネーの常識です。借金と収入を混同すれば、普通の人は生きては行けない。住宅ローン(負債)を借りて、わが世帯の財政も豊かになったと感じれば、それは変でしょうね。

しかし行政の財政では、税収も負債も歳入です。国でも、国債発行は歳入になります。ここが、行政の財政のおごった点です。


行政は現金収支が合えばいい。借金の利払いは「必ずできる」。その理由は、徴税権がある行政だからとされています。


(中略)

▼政府部門(行政)はデフォルトしてはならない

利払いをせず返済もしなければ「自治体のデフォルト(返済と利払いの停止)」です。夕張市がデフォルトを起こせば、それは、他の自治体の金融信用も破壊します。ヤミ起債を含め、負債が膨らんでいる「他の自治体も同じ」ではないかとなる。

政府は、これがもっとも怖い。従って、「市の財政はなにがなんでも再建」されねばならない。ダイエーのように「約5000億円の借金の棒引き」を金融機関に求めるわけにゆかない。


それを行えば、国債についで信用があるとされている地方債が急落し、204兆円の残高の、全部の金利が急騰します。

ここに、借金が、財政規模とアンバランスに増やしてしまった自治体運営の苦しさがあるのです。


(私のコメント)
今年は地方統一選挙の年ですが、宮崎県知事選挙におけるそのまんま東の当選はどのような影響をもたらすのだろうか。私は知名度を生かしてある程度は善戦するだろうが当選するとは思ってもいなかった。マスコミもそのまんま東が当選すると思っていた人は少なかったようだ。

しかしマスコミはそのまんま東の当選にスポットライトを当てても、なぜ当選したかについての分析はほとんどやっていない。なぜ宮崎県民はなぜそのまんま東を選んだのだろうか? もはや中央政府は我々を見捨てたと思ったから自民党が推薦した候補を拒否したのだ。

夕張市の財政破綻を見て、全国の地方自治体は第二の夕張市になることを恐れている。夕張市は市の職員の半数が退職して残った市の職員は大幅に給与や退職金がカットされる。このような事は財政破綻が起こる前にすべき事なのですが、地方自治体は自らリストラする事が難しい。

だから宮崎県民もしがらみのないそのまんま東なら大胆なリストラが出来ると思って選んだのだ。彼はしがらみのないことは確かですが実際にリストラできるのだろうか? 夕張市並に県の職員の給与を大幅にカットできるのだろうか? 県議会議員を大幅に減らして予算もカットできるのだろうか?

多くの地方自治体は、夕張市は例外であり、破綻状態になる前に国が何とかしてくれると皆が思っているからリストラが進まない。しかし実際に税金を納めている地方の住民にとっては何とかリストラして欲しいと思っている。それくらい地方公務員の給与は民間に比べて高すぎる。ネットで調べると次のような実態がある。


公務員の給料は平均いくらっすか? 教えてGOO

当世給料事情/6 地方公務員  民間の倍、年収1300万円も
5〜6人に1人は年収1000万円超という、うらやましい職場が実在する。  
【横浜市営バス】
運転手約1600人。平均年収は791万9000円、1000万円以上は245人、50歳代後半で年収1300万円超の運転手もいる。
【京都市営バス】
約940人の運転手の平均年収が873万円。うち180人が1000万円プレーヤー。
【大阪市営バス】
約1390人の運転手のうち260人は年収1000万円以上で、3〜4人の運転手は1300万円を超える

【三鷹市】
市営保育園は、保育士1人当たりの人件費が799万円。
これに対し、施設は同市が整備し、運営は民間企業に委ねる「公設民営」保育所は1人当たり467万円

【杉並区】
区立小・中・養護学校に計176人の常勤の給食調理員がいる。平均年収は約800万円で、「950万円を超える人もいる」(杉並区議会議員)。
年間の勤務日数は約240日だが、給食実施日は180日強。

何も知らずに過ごしていたら、なんと我が町はとんでもない状態になっていました
【町田市】
・学校給食は1食当たり850円。うち市職員人件費が9割。年収800万円。はるかに安い民間委託は安全性に疑問あり、と市長難色。組合は絶対反対
・清掃業務は、人件費が民間の2.5倍。年収900万円。組合との協定により早朝、夜間のごみ収集はやれない。実動4時間半。業務時間中の入浴、洗濯、休憩が当たり前。
・公用車運転手年収1000万円
・学校用務員の年収は、なんと880万円。トイレ掃除は民間委託で用務員の仕事外

みどりのおばさん年収800万円
【江東区】
みどりのおばさん年収800万円 江東区 月額給与は67万円で年間で802万円(平成13年度実績) 
公立学校の調理員、学校給食調理員の給与は年間909万円(平成13年度実績)
江東区の部長級の年収は1500万円以上で、退職金は3700万円を超える

給食調理員(給食のおばちゃん)実働180日で平均年収800万円
→ベテランでは950万円の年収に、退職金は約2,800万円(平成11年)

大阪市現業職員の給与実態 最高1303万円
【大阪市】
都市環境局(1498人)の平均年収は788万円、最高額1303万円。
建設局(911人)は平均651万円、最高額1140万円、
港湾局(466人)は平均740万円、最高額1187万円だった。

大阪市の職員厚遇問題 年収1300万円以上の清掃員が6人

大阪市の過剰手当:下水管理現場職員、年収1000万円が超3割
大阪市都市環境局は11日の市議会建設港湾委員会で、下水道の維持管理などに従事する職員1498人中、約3割の454人が年収1000万円以上であることを明らかにした。特殊勤務手当などが多いためで、建設局は同様の職員911人中31人、港湾局は466人中60人が年収1000万円以上だとした。

大阪市職員のカラ残業、2年で5500件超
サービス残業って何ですか?大阪市は残業しなくても残業代がもらえちゃいますけど?

札幌市バス、平均年収1000万円突破
→札幌市の監査委員会が提出した資料によると、札幌市バス職員の平均給与が1000万円を超えたことが明らかになった

小泉首相よいまどき公務員がこんなに優遇されていいのか!
→年収1000万は当たり前、都心一等地で家賃6万円、3000万円を超える退職金・・・
→小金井市職員年収1256万円(うち650万が各種手当!)を筆頭に20位でも年収1133万円

公務員宿舎情報
→表参道・3LDK/駅歩4分/築8年→67000円(敷礼ナシ・駐車場あり)相場なら40万

公務員のタイムテーブル
→地方公務員7割が月間残業10時間未満、週4でサークル活動、喫煙タイム40分

「高すぎる公務員給与」を考える
→怒りの告発レポート】この国はいまだ役人天国だ年収2000万円以上ウハウハ役人500人もいる!

公務員の給料=民間平均の嘘 民間「準拠」は民間「平均」ではない!
→民間準拠とは単純な民間平均ではなく、民間のおおよそ上位4分の1程度の賃金水準に準拠ということ
→04年民間サラリーマン(1年を通じて勤務した給与所得者)の平均年収は444万円(男544万円、女274万円)(国税庁民間給与実態調査)
→これに対し全地方公務員の平均年収は743万円(総務省調べ)



(私のコメント)
宮崎県民がそのまんま東を選んだのは、いったん宮崎県が財政再建してもらって夕張市なみのリストラを敢行して欲しいと思っているからだろう。大阪市では年収1300万円の清掃員が沢山いるそうですが、清掃員は朝に4時間程度仕事するだけだ。同和問題も絡んでいるのでしょうが、大阪市もリストラしてもらって整理しなければならない。しかし横山ノックは大阪市民の期待を裏切った。




中国のASAT実験内容も、実験日時も、公表手順も、批難に答え
る反論も、すべて北京のトップによる事前チェックが入っています。


2007年2月3日 土曜日

中国様、いま踏んでいらっしゃるのは虎の尻尾では? 2月3日 ワイルドインベスターズ ブログ

あとちょっとで学校が終わるってのに次から次へとうまそうなネタ出しやがって・・・。とぼやきつつ、今回はさらっと行きましょう。

先月、中国様が宇宙空間にてミサイルによる衛星破壊実験を行いました。
これを知ったときは「どひゃー!」とひっくり返りました。


それ、マズイんじゃないの?
宇宙空間は同盟国ですら遠慮している米国の聖域よ?
せっかくアメリカとイスラム(orロシア)を対立させて、その間に日本と台湾を併合する作戦がうまく行きかけているのに、そんなことやったら敵国1番手に躍り出ちゃうよ?


実際、米国の圧倒的な軍事力を支えているのは衛星など航空・宇宙技術です。イージス艦からミサイルまでほとんどGPSを使っているわけですから、それを潰されたら人海戦術が生きてくる可能性が出てくるのですよ。

「こりゃあ、虎の尾を踏んじまったんじゃねえのか」

というのが最初の感想です。

日本とアメリカはそのあたりを暗黙の了解で住み分けていまして、ほぼ「地上は日本、空はアメリカ」という状態になっています。日本の自動車・新幹線が優れているのは、敗戦後少なからず航空エンジニアたちがそれらの産業に流れたからです。しかしそれは裏を返すと、世界でもトップレベルにあった航空技術を(少なくとも戦後しばらくは)封じられたということなんですよ。

新幹線に乗っていると、「なんでこんなものが地上を走っているんだろう?いっそ飛んじゃえば楽なのに」と思いますよね。駅の改札も非接触カードで「ピッ!」と一瞬で通過できます。一方でアメリカときたらそのへんの紙切れみたいなものに印字してあるかどうか怪しげなものを切符にして、それを買っても車掌が見に来るかどうかわからんというありさまです。自動車も日本勢がハイブリッドだ燃料電池だと進化しているときに、ビッグ3の一部は投資不適格の烙印を押されるほど苦しんでいます。

しかしですね、アメリカはそれで良いのですよ。

なぜなら、航空宇宙技術を押さえておけば、いざ戦争になったときに勝つことができるからです。空を自由に飛びまわる航空機・ミサイル・衛星の前では、自動車も弾丸列車も「動く的」でしかありません。だからアメリカはかつてほど自動車産業を守る気がないんです(もちろん、日本の自動車会社が北米で現地生産を増やしたという要素もあります)。

逆に、日本が航空機や衛星を作り始めたら警戒するでしょうね。日本が衛星打ち上げに失敗したりすると「アメリカさんが部品に細工したかな」なんて邪推してしまいます。ホンダが航空機への参入を発表したときは、正直ヒヤッとしました。先の大戦で日米の序列と役割は決まっているので、それを乱すようなニュースに対しては過敏に反応してしまうのです。

そこへきて、中国様は豪快にこの虎の尾を踏んでしまいました。

(中略)
ところで、「中国がどうして今頃こんなことをするかのか?」という疑問に対して、御家人さんのブログでは「胡錦涛を困らせるために江沢民(上海閥)がやったんじゃないかと」類推しています。要するに、良くある権力闘争です。http://blog.goo.ne.jp/gokenin168/e/e110e5d0490e31f7f58c7b028da2aeda

まあ、これが本命でしょうな。ただ最近はきな臭い話が連続して流れてきており、1/30日に衝動買い(笑)した夕刊フジでは「昨年5月に胡錦涛が駆逐艦に乗って演習を視察していたら、砲弾を打ち込まれて兵士が5人死亡。胡錦涛はヘリで逃げた」という情報があります。

私個人としては、これをにわかに信じることはできません。支那の権力争いは「一族皆殺し」が基本ですから、相手を生きて帰してしまったら次は自分が全滅させられることになります。駆逐艦に乗っている相手を遠くから砲撃しても、仕留める確率は低いです。しかも船を沈めたところで、相手はまだ生きているかもしれない。そう考えると、そんなに分の悪いギャンブルをするものかなと怪しんでしまうのです。


ただこういった情報が流れてくることから、胡錦涛の権力基盤が揺らいでいるのではないかという類推はできます。将軍様の国と同じで、軍人が支配する国はその暴走を止められません。そのはけ口は近隣諸国になるはずですから、日本としても警戒水準を上げるべきでしょうね。


これから流行るナンキン映画その他の背景 1月28日 兵頭二十八

シナのASAT実験の意味は、シナの指導部が、アメリカのマスコミ世論の上で好感を獲得しようとする努力を、かなぐり捨てたということです。

 これは、シナ政府が、対米宣伝工作の不成功を、公認したということでしょう。

 アメリカ政府は、シナの宣伝努力にもかかわらず、シナは敵だとハッキリ意識をしている。それが揺るぎそうにない。それがハッキリわかったので、北京はASAT実験を許可したのです。

 いうまでもなくハイテク兵器や宇宙実験は、それが行なわれるタイミングが政治外交的イベントと連動していなければなりません。もちろん実験内容も、実験日時も、公表手順も、批難にこたえる反論も、すべて北京のトップによる事前チェックが入っています。

 いいかげん聞き飽きた、しらじらしい工作ですが、
〈これも軍部の独走で、中共は何も知らなかったのだ〉という話を日本のマスコミに最初に流したのは誰か、覚えている人は、忘れないようにすると良いでしょう。

 シナは、イランを助ける反イスラエル運動として、2007年中は米国内で南京映画を公開する予定です。さすがのシナ人も米国内では直接に反イスラエル運動はできませんから、日本を叩くフリをする中で、米国政府がイスラエルを支援しにくくなるような気運を盛り上げたいのでしょう。

 兵頭の予測ですが、映像は、「反空爆」のイメージが強調されると思いますよ。シナが怖れているのは米軍の空からの攻撃ですから。そして旧日本兵と今のイラクの米兵を重ねる印象操作がされるでしょう。

 しかしアメリカ政府はとっくにシナの意図はお見通しなので、おそらくクリント・イーストウッド氏の硫黄島映画は、アカデミー賞のいくつかを受賞するでしょう。それは米国政府からの、北京に対するメッセージです。「われわれは日本を支持し、シナの味方などしない」と。
 ちなみに兵頭は未だ硫黄島の映画を観ていませんし今後も観る気はないです。インターネットの予告編だけで、興味は失せました。

 久間氏問題の背景はよく分りません。
 米国海兵隊は、海岸から数十kmしか作戦できない、中途半端な遠征軍になってしまいました。
 海兵隊じしんは、〈百数十kmも陸上を侵攻できるぞ〉と、盛んに訴えているんですが、それが信じられていたら、北鮮は、あんな海に近いところに核実験場は設けませんよね。
 海兵隊は、シナ相手には、どうにも張り子の虎なのです。シナ軍は強くはないが、それを言うなら、イラクの民兵だって強くはないですよね。したがって、海兵隊は政治的にはペーパータイガー。
 となれば、沖縄で優遇してやる価値などない。有事の際は嘉手納を使わせれば済むので、飛行場も進呈しなくてよい。久間氏がそう主張しているのかどうかは、承知しません。

 シナの内陸は懐の深さが5000kmもありますから、この距離を克服できないと、米国はシナの侵略的意図を有効に掣肘できません。
 数千kmの内陸躍進ができる、そして圧倒的多数の敵歩兵を相手にもできる――。そんな、これまでに存在しなかったような、新軍隊が必要なんです。これが「米軍再編」の目標です。シナ・シフトを進めてるんです。

 海兵隊は、総人数も少なすぎるので、どうにもシナ軍相手の「睨み」は効きません。ですから、今後リストラされる運命です。

 これからの米軍の主役は、空挺化された陸軍部隊です。上陸などせずにいっきょに内陸に大軍を送り込める能力。それだけがシナを抑止できる。すべての軍種が、空挺化された陸軍のための補助部隊となるでしょう。
 座間に注目しましょう。北京も注目しています。だからナンキン映画なのです。(後略)



(私のコメント)
最近の中国は少し図に乗りすぎてきているような気がしますが、北京の政府幹部はこれを止める事が出来ないのだろうか? それともアメリカを怒らせることを承知でやっていることなのだろうか? 中国の衛星破壊実験で宇宙空間に土星の輪のようなゴミの雲を作ってしまいましたが、同じ軌道を飛ぶ衛星にとってはいつゴミの破片が衝突して破壊されるかもしれない脅威にさらされる事になる。

中国にとっては宇宙軍事技術の国威発揚のつもりでやったのでしょうが、宇宙空間にゴミを撒き散らしてしまった。確かにこれからの戦争は宇宙空間で行なわれる宇宙戦争の時代であり、いかに敵の衛星を打ち落とす事が課題になる。中国はそれをアピールするつもりだったのでしょうが、ゴミの問題は意識していなかったのだろう。

アメリカやロシアでは衛星はレーザーなどで打ち落とすのが常識になっているが、中国はミサイルで衛星を破壊してしまった。飛行機とは違って衛星はすぐには落ちずに何十年も軌道上を周回してしまう。雲のように散らばった衛星の破片が他の衛星に当たれば故障の元になる。少なくともその軌道上には衛星が飛ばせなくなる。

アメリカ軍のハイテク装備はGPSなどによってコントロールされているから、GPS衛星が打ち落とされればアメリカ軍のハイテク装備は役に立たなくなってしまう。通信なども通信衛星が使えなくなれば通信も途絶してしまう。偵察衛星も同じだ。少なくともロシアなどとの間では宇宙空間の紳士協定が守られていたが、中国はそれを知らなかったのだろうか?

日本が宇宙開発に消極的なのもアメリカの圧力からですが、日本も紳士協定を守っていても中国は有人宇宙衛星を上げたり、宇宙の軍事利用を意欲的に進めている。それに対するアメリカの反応は寛容であり、クリントン政権では多核弾頭の技術まで民間企業を通じて中国に供与した。これはアメリカの国防上の重大問題なのですが、クリントン元大統領はその事で何の咎めも受けてはいない。

アメリカは同盟国である日本に対しては核開発や宇宙開発に対して様々な圧力をかけてくるのに中国に対しては寛容なのはなぜなのか? 今回のASAT実験に対しても抗議はしても軍事制裁や経済制裁はしないだろう。日本に対しては単なる通商問題でもすぐにスーパー301条を持ち出して制裁をちらつかせるのに中国に対してはしない。

日本は核ミサイルを持っていないが中国は核ミサイルを持っているからアメリカは及び腰になるのだろうか? ブッシュ政権になって当初は中国に対する態度も厳しくはなりましたが、9・11以降は緩和された。アメリカの奥の院の戦略としては中国を地域覇権国家として認め、日本を弱体化させたままアメリカの支配下に置く事が考えられている。

しかしアメリカの奥の院のその戦略はアメリカにとっては命取りであり、気がついた時は宇宙空間も中国の宇宙戦略によって無力化されて手も足も出せなくなるかもしれない。実際上今回のような衛星破壊作戦が行なわれれば宇宙空間は利用できなくなり地上のローテク兵器しか使えなくなるだろう。

株式日記でも以前に書きましたがアメリカは中国の楯と矛戦略に嵌ってしまっている。中国にとっては中東は楯であり極東は矛である。アメリカがイランに対して攻撃を始めれば、中国は朝鮮半島か台湾海峡で行動を起こすだろう。しかしアメリカの戦略家達はその事に気がついているとは思えない。

アメリカの軍部は専門家だから十分に分かっているのだが、奥の院の方は中国の甘いエサにつられて欲に目が眩んでしまっている。台湾に対するアメリカの曖昧な態度も理解に苦しむところであり、アメリカは戦わずして台湾を中国に渡すつもりなのだろうか? 日本としては米中関係は傍観しているしかない。

アメリカは中東に対して深入りしすぎて他のことは考えられなくなっている。北朝鮮に対しても中国に丸投げして核実験をやろうがミサイルを飛ばそうがアメリカは実力行使は出来ない。それだけアメリカは衰えてきており、日本としては自立の道を探らなくてはならなくなってきている。しかしながら日本の政界はアメリカにすがっていればいいと言う考えのようだ。

中国としては今回のASAT実験はアメリカの反応を探る為なのだろう。ちょうどユーゴ紛争の時に中国大使館がアメリカに誤爆されましたが中国は何も出来なかった。今回の事でアメリカは何らかの報復は出来るのだろうか? 出来なければ中国はアメリカの足元を見透かして仕掛けてくるだろう。日本は高みの見物をしているしかない。

結局は中国に対するアメリカの切り札としては日本の核武装しかないと思うのだが、アメリカの奥の院の考えが分からない。




男女共同参画=ジェンダーフリーは共産主義に基づく革命思想
「子供を産む機械=女性」は唯物論のエンゲルスの発想なのだ


2007年2月2日 金曜日

急進的なフェミニズムはウーマン・リブ的共産主義

第1章 フェニミズムの本質とは

わが国では、社会のそこここでジェンダーフリーが猛威をふるっている。国会では、夫婦別姓の法制化をめざす提案が繰り返されている。これらの動きを推進しているのは、フェミニストと呼ばれる人たちである。

日本ではフェミニストというと、「女に優しい男」という意味で使われる。しかし、英語のフェミニストという言葉にこういう意味はない。フェミニストとは、フェミニズムを主張する人のことである。

フェミニズムとは、18世紀末、フランス革命の中から誕生した男女同権論に基づく女性の権利拡張の思想・運動である。その後、女性の権利は拡張され、性差による不当な差別は、少しづつ改善されつつある。この古典的な意味でのフェミニズムは女性解放論のことであり、女性の権利を獲得・拡張しようとする運動である。女性解放運動は、わが国でも戦前から行われ、婦人運動として、男女の平等・同権を訴え、女性の地位の向上と権利の拡大を唱えてきた。その限りではその主張は正当であり、戦後、わが国では法的・社会的に女性の権利の確立が相当程度、進んできている。

しかし、今日のフェミニズムの主流は、単に男女の平等・同権を求めるものではない。もっと過激な思想に変貌している。

わが国では、親子の情、夫婦の和を重んじてきた。そして、先祖を敬い、子孫の愛育に心を尽くしてきた。家族のつながりを大切にすることは、わが国の伝統であり、また国民の常識である。しかし、急進的なフェミニズムは、こうした伝統や常識を根底から覆そうとしている。

急進的なフェミニストは、誰もが女性に備わっていると信じている母性本能を否定する。母性本能などというものは、存在しないというのである。また、特に3歳までは母親が常に子供とともにいて子育てをするのが良いということは常識だが、これも、こうしたフェミニストは、男性が女性を支配するために作った虚偽の観念だという。そして、彼女たちは、すべての女性は家庭から出て、働くべきだと主張する。それゆえ、専業主婦は、彼女たちの攻撃の的である。彼女たちは、専業主婦の女性たちを、口を極めてののしり、罵倒する。

急進的なフェミニストは、結婚という制度は廃止すべきだと主張する。そして、個人の自由の拡大を主張する。結婚とか家族に縛られることなく、個人としての自由を追及したいというのである。このなかには、性的自由が含まれる。それは、フリーセックスの主張に結びつく。

急進的なフェミニズムの本質のひとつは、個人主義である。フェミニズムは、女性における個人主義の徹底を推し進める思想でもある。個人主義を徹底するならば、家族という人間関係は束縛となる。女性の自由拡大のためには、家族を解体しなければならない。それが、この運動の目指すものなのである。

個人主義は、西洋近代啓蒙思想の特徴の一つである。個人主義は、社会の基本単位は個人であると考える思想である。そこでは、親子・夫婦・祖孫などの家族関係を捨象した、抽象的な個人というものが仮設される。アトム的つまり原子的な個人を単位として人間関係を考えるのが、出発点となっている。そのため、西洋近代啓蒙思想では、個人と個人、集団と集団の間の関係を、力の関係としてとらえる。例えば、王と貴族や市民の関係を力関係としてとらえ、それをひっくり返そうとしたのが、近代デモクラシーである。さらに資本家と労働者の関係を力関係としてとらえ、これをひっくり返えそうとするのが、共産主義である。

その共産主義の影響の下に、急進的なフェミニズムは、男女の関係を階級対立の一種ととらえる。それゆえ、このフェミニズムの本質のまた別の一つは、闘争の思想である。急進的なフェミニズムは、夫婦関係、さらに一般の男女関係を、支配関係ととらえる。そして、女性が男性に支配されていると考え、この状態をひっくり返そうというのが、この種のフェミニズムである。

共産主義の始祖マルクス=エンゲルスは、西洋近代啓蒙思想を徹底し、すべての歴史は階級闘争の歴史であるととらえた。唯物史観は、階級闘争を社会発展の原動力とする。彼らはこの一面的な歴史観を、家庭・男女関係に持ち込む。階級闘争を、家庭の中から行おうというのが、共産主義的なフェミニズムなのである。実際、このフェミニズムが主張する「結婚制度の廃止」も、「家族の解体」も「性的自由」も、共産主義が唱えてきたものである。

 共産主義的なフェミニズムは、共産主義の女性解放運動の新たな形態である。また、それはフェミニズムの新たな発展形ともなっている。共産主義の始祖・マルクス=エンゲルスはもちろん、その後、彼らの思想を継承・発展させたレーニンや、ルカーチ、グラムシ、フランクフルト学派、ライヒ、マルクーゼ等の理論が、こうしたフェミニズムの背後にある。特に既成の文化を破壊することを革命の手段とする共産主義の一派の影響が、色濃く現れている。

それと同時に、今日のフェミニズムには、アメリカで生まれたウーマン・リブの思想が流れ込んでいる。ウーマン・リブは、それまでの女性解放運動・女権拡張運動を、極めて急進的なものにした。既成の道徳や秩序を徹底的に破壊しようとするものである。ドラッグ(麻薬)やフリーセックスが肯定され、同性愛も肯定されている。

それゆえ、今日の急進的なフェミニズムは、共産主義とウーマン・リブとが合体した、ウーマン・リブ的共産主義と見ることができる。これは、共産主義革命運動の新たな展開であると同時に、人類の精神文化を破壊しようとする危険な運動である。このことを確認するために、本稿を書くものである。(ページの頭へ)


第15章 ジェンダーフリー派の登場

第13章に、新左翼の中から、ラディカル・フェミニズムの家族論をとりこんだ「マルクス主義的フェミニズム」が登場し、この共産主義化したフェミニズムこそ、今日の日本で影響力を振るっている思想であると書いた。そして、この思想の中から、ジェンダーフリー運動が出てきた。「ジェンダー」とは、生まれつきの男女の差ではなく、社会的・文化的に作られた性差を意味する言葉とされる。ジェンダーフリーとは、そうした社会的・文化的性差がなくなった状態という意味だろう。フェミニズムは、女性の権利を獲得・拡大する思想・運動であり、本来、ジェンダーフリーとは別のものである。しかし、ジェンダーフリーを唱え、急進的に進めようとするフェミニストが、日本に登場した。ジェンダーフリーという言葉自体、和製英語である

平成11年6月、「男女共同参画社会基本法」が制定された。そして、「男女共同参画社会の実現」のかけ声のもと、具体的な政策・施策が国や各自治体で進められてきた。その結果、ジェンダーフリーの思想があらゆるところを席巻し、わが国の常識や伝統を覆すような事態が起こっている。

「男女共同参画社会基本法」の制定は、ジェンダーフリーを推進する学者がブレーンとなっていた。その中心人物が、東京大学の大沢真理教授である。大沢氏は、男女共同参画審議会の男女共同参画会議・影響調査会会長だった。また、同法の解釈や運用に、強い影響を与えている学者に、東京大学の上野千鶴子教授がいる。

ジェンダーフリー運動の大本の思想を支えているのは、この二人の女性東大教授である。二人は、「ジェンダーフリーの2大教祖」ともいわれている。

大沢氏は、上野氏との対談で、同法について、「ジェンダーそのものの解消を目指すことを議論し尽くした上ではっきり決めた」と話している。そして、「政府はジェンダーそのものの解消を志向している」と主張している。大沢氏や上野氏の解釈では、「男女共同参画=ジェンダーフリー」なのである。性差を否定・解消することが、彼女らの真の目標なのである。

ジェンダーフリー派フェミニスト、大沢真理・東大教授は、次のように語っている。

「セックスが基礎でその上にジェンダーがあるのではなくて、ジェンダーがまずあって、それがあいまいなセックスにまで二分法で規定的な力を与えている、けれど本当はあなたのセックスはわかりません、ということ」だと。

このような考えに持つ大沢氏は、「女で妊娠したことがある人だったらメスだと言えるかもしれないけれども、私などは妊娠したことがないから、自分がメスだと言い切る自信はない」とまで言う。(『上野千鶴子対談集 ラディカルに語れば』平凡社、平成13年)



(私のコメント)
昨日の続きになりますが、福島瑞穂議員や辻本清美議員などが「子供を産む機械」と言う言葉になぜヒステリックに反応するのかと言うと、共産主義思想におけるエンゲルスの唯物論を分かりやすく言ってしまったからだ。エンゲルスは、女性が真に解放され、真に男女の社会的平等が実現されるためには、まず女性が家庭から出て働くことが必要だと言っている。

さらには家族を廃止して、子育てや教育は、家庭ではなく社会的に集団で行うようにする。そして別の形態の人的結合を造ることが必要だと言っているのである。すなわち「女性は子供を産む機械」であり、女性が真に解放され、真に男女の社会的平等が実現されるためには、まず女性が家庭から出て働くことが必要だと言っている。

柳沢厚生大臣は東大を出たから共産主義運動にも理解があって、それが講演の時にふと、「女性は子供を産む機械」という言葉が出てきたのではないかと思う。エンゲルスの言っている事は家庭を解体してこそ女性は解放されるという事であり、出産や育児などは集団で行なうとしている。

昨日紹介した渡部昇一教授はイスラエルのキブツの例を紹介していましたが、女性を育児と夫への依存から解放する形態をとっていましたが、その試みは失敗した。まさにイスラエルこそが真の共産主義国家として誕生したのですが、これでは周りのイスラム諸国から排斥されるのは当然だ。

《 エンゲルスは、女性が真に解放され、真に男女の社会的平等が実現されるためには、まず女性が家庭から出て働くことが必要だと言っている。働いて経済的に自立することを、エンゲルスは主張しているのである。さらには家族を廃止して、子育てや教育は、家庭ではなく社会的に集団で行うようにする。そして別の形態の人的結合を造ることが必要だと言っているのである。 》

老人に対する介護保険制度もエンゲルスの発想から作り出された制度であり、日本国政府は名前を変えただけの共産主義政策を実施しているのだ。東大を出たインテリ官僚達はいまだに共産主義にかぶれており、日本を真の共産主義国家に変えようとしているのだ。

《 話を戻すと、マルクスは、『ドイツ・イデオロギー』で、家父長制家族の長は、妻子を財産と考えると述べている。エンゲルスは『家族、私有財産及び国家の起源』のなかで、女性差別の根源は家父長制にあると論じた。そして家父長制を打ち倒そうとする。これと同時に、彼らは一夫一妻制の結婚という制度を打ち壊そうとする。 》

ドイツと日本は家父長制家族で共通していますが、ドイツも日本もアメリカ占領軍により家父長制度は解体されてしまった。家父長制が解体されてその代わりとして介護保険などによる国家による老人介護制度などが導入されて、日本の老人達は株式日記で書いたように地方に老人達は残されて現在の姥捨て山に捨てられたようになっている。

《 これによって、家族に基づく社会全体の秩序が崩れる。その結果、すべての人間は、夫婦・親子の関係すらない個人としてバラバラに分解され、改めて集合した社会となる。これが、マルクス=エンゲルスの考えた共産主義社会実現の方法である。 》

ジェンダーフリーという男女共同参画法は名前を変えた共産主義運動であり、全国の小学校で過激な性教育で問題になりましたが、そのことによって小学生のうちからフリーセックスに抵抗感を無くす事をしている。だから最近の中学生や高校生の性の乱れは、ジェンダーフリー教育が原因なのだ。

《 青少年の性行動や家族の秩序が混乱したため、堕落と離婚が激増した。その結果、出生率が激減し人口が増えなくなった。家族関係・親子関係が弱まったため、少年犯罪・非行が急増した。少年による暴行傷害、重要物の破壊、住宅への侵入略奪と殺傷、学校襲撃と教師への暴行、婦女暴行が横行した。 》

現代の日本で起きている性の乱れはソビエトでも起きていた事であり、ソ連の性の乱れは多くの浮浪児を生み出し、家庭の崩壊を招いて、やがてはソビエトの崩壊につながった。しかしその思想はアメリカのニューディーラーなどに引き継がれて、戦後の日本のGHQの政策として浸透していった。

《 しかし、共産主義は死んではいない。共産主義的文化革命は、アメリカや日本で社会の隅々まで根を張っている。アメリカでは、1960代以降、たった3分の1世紀の間に、かつては反文化的と非難されていた文化が支配的となった。フリーセックス、ドラッグ、同性愛等がそれだ。それが、アメリカニズムの流行によって、西欧・日本にも深く浸透している。その源に、共産主義の革命戦術があるとは大衆は気づいていない。 》

福島瑞穂社民党代表や辻本清美議員といった女性活動家は、全共闘活動家のなれの果てですが、もともとは共産主義活動家であり、ソ連の崩壊により共産主義の看板は下ろしたが女性解放運動家として生き延びる事が出来た。そして現在の国会や政府部内にも勢力が伸びている。

《 90年代には、フェミニズムは権力の中に入りこんだという。「90年代になると、フェミニズム運動の戦略は一新される。国政のレベルで、国家の立法を左右し、フェミニズム的な法律を制定させ、国や自治体の政策としてフェミニズムを実施させる作戦が表面化した。まず夫婦別姓法案を画策し、しきりに世論操作をして、何度も世論調査を実施したが、つねに国民の半数以上が反対という結果が出た。業を煮やしたフェミニストたちは、正面突破作戦を立て、『男女共同参画社会基本法』を成立させてしまった。 

最近になってようやく国会議員たちもジェンダーフリー教育が共産主義思想によるものだということに気がついて見直しが始まっている。男女共同参画法が成立した背景には、中央官庁などにも隠れ共産主義者が潜り込んでおり、ゆとり教育なども彼らの活動による成果なのである。

《 わが国の政治家たちは、マルクス主義フェミニスト・デルフィでさえ「仮説」に過ぎないと言っているものを、大沢氏の能弁に圧倒され、科学的真理であるかのように誤解し、男女共同参画社会基本法を制定してしまった。ジェンダーフリーが共産主義に基づく革命思想だということに気づかずに、国を挙げて全国に押し広める形になったのが、近年の混乱なのである。 》




福島瑞穂、辻本清美といった女性議員は「女性は子供を
産む機械」という言葉になぜヒステリックに反応するのか? 


2007年2月1日 木曜日

男は男らしく 女は女らしく 渡部昇一 (著)

現代女性の機能快の喪失感

ところで、この機能快という概念を現代の女性にあてはめてみるとどうであろうか。

女性は、前にも述べたように、普通の状態なら十回くらい妊娠し、その最も女性的な器官をフルに働かせるのであるから、機能快を十分味わえることになる。ところが現状ではその機能が押えられている。ピル、あるいはその他の手段で押えているわけである。もちろん、性的交渉はいくらでも持てるのであるが、性的な喜びは、マスターズ・アンド・ジョンソンの研究にあるように、かなり浅い点にあるらしい。

ところが元来、女性に深い喜びを与えるものは、あるいはほんとうの意味の創造的喜びを与えるものは、子宮の中に新しい生命をつくること、そしてそれが生まれ出たらお乳をやること、そしてそれが大きくなるのを見ることだったろうと思われるのである。事実、そうするように自然は女性の体をつくってあるわけであって、これについては争う余地がない。ところが現代ではそれが十分にできないものだから、現代の女性は深いところで機能快に悩んでいるに違いないのだ。

それからもう一つ、現代の女性が機能快をさえぎられている面に、家事の単純化がある。私の母の代だと、梅干しを漬ける、潰け物を漬ける、それに納豆や豆腐や味噌まで作ったものである。もちろん違反ではあるけれども、お酒まで作っている人もあった。そういうことができるのが田舎のちゃんとした主婦だった。私の知っている西ドイツの田舎の主婦たちも、ハムからソーセージまで作っていた。ソーセージにも「おふくろの味」があったのである。もちろんパンは自分の家で焼くのである。

ところが現代の都会の女性たちは、子供もつくりたいだけつくれなくなったし、味噌も梅干しも、何も作れなくなってしまった。根本的なところで作る楽しみが大幅に減じられているのであるから、女性として機能快の喪失感は、意識するしないにかかわらず、まことに深いものであるはずである。昔の田舎の主婦は、町の人から見れば「まアあんな苦労して」という生活であったが、当の主婦たちはけっこう生きがいがあったのである。味噌汁がおいしいと言われたら、それは単に料理のみならず、味噌の作り方までうまかったとというのであるから、喜びも深かったと思われる。

現代の女性には、そういう根源的な喜びへ至る道がふさがれている。それで彼女らはどうしても、活動の分野を女性的な子宮関連の機能快から離れたところに発見しなければならない。もちろんその代償行為は筋肉的な仕事に行くはずがないので、その他の仕事ということになるであろう。現代の女性たちが職業を持つことに熱心なのは、機能快の面からも十分考えられることである。

十人の子供がいれば、幼稚園の先生になりたいとは思わないに違いない。しかし二人しかいなければ、幼稚園の先生に、あるいは小学校の先生になりたいであろう。また家事も、洗濯といえば洗濯機にほうり込むだけ、料理といえばほとんど全部でき上がっているような食材を買い求めてくる生活であれば、やはり自分が何かにおいて有用であるという、自分の存在理由を確かめるために会社に勤めてもしたいであろう。

そして「○○さん、この伝票書いといて」と言われて喜んでいたいであろうと思われる。ほんとうは育児や家事よりも手ごたえのある事務的仕事などがあるわけがないが、それによって給料をもらい、その給料によって自己の存在価値を確認するのである。

先のカトリックの女性観から言うと、精神的な面では男女は平等なのであるから、今後の女性の職業において、最も男性と同じになりうるのは知能にウエートをかけた仕事であると想像される。しかしこれは同時に、女性としての機能快を奪われたうえでの話である、という状況を考えざるを得ない。

したがって、そういう女性たちが男と同じ仕事につけば、男のごとく仕事に対して幸福感を持ちつづけられるかどうか、これは大きな問題である。というのは、少数の女性しか男並みの仕事についていない現状においては、そういう女性たちは選ばれたものという意識が強いので、その喜びのほうが大きく、他の不満感を相当程度忘れられるということが考えられるからである。

将来、ほとんど全部の女性が同じに働くようになれば、同じ職場においても男よりははるかに不満度が多くなるのではないか、ということが推定されうる。事実、イスラエルのキブツ(協同組合的な生活共同体)では、最初、女性を育児と夫への依存から解放するという形態を採用した。しかしいつの間にか男女の適性で仕事の種類も分かれ、特に、育児に専念することを希望する女性の圧力で、伝統的な家庭形態に戻っているキブツが着実にふえたとのことである。

妊娠という創造カの減少

女性にとって、機能快が現代の社会では満たしがたくなっているという事実、これを考えるときに二つばかりの面を考慮に人れるとわかりやすくなるのではないかと思う。

一つは、深い本性にもとづいたオルガスムスを経験しない女性、すなわち深いところで機能快を満足させられない女性はおちつかなくなるということである。同様な現象は男にも見られることであって、自分の能力に適しない仕事についた男性はなかなか職が定まらなくて転々としたりするのである。これは先天的に地道な職業に向かないとか、あるいは先天的に、後天的でもかまわないが、わがまますぎて一つの職業に腰が定まらないとか、理由はいろいろあるだろうが、昔のほうが自分の能力に適した職業につけないことがもっと多かったということが考えられると思う。

私の父は何度か職業をかえた。今から考えると父は才能も人並み以上にあった人で、それに適した職業もあっただろうと思うが、明治末期の東北の田舎の教育状況では、父は自分に適した仕事につくチャンスがそもそもなかったのだろうと解釈しているしだいである。肉体的な労働には向かない、しかし考えることは好きである、といったような人間は昔の東北の田舎では実際上いる場所がないのである。昔のような単調な農作業、あるいは単調な肉体労働に向かない人は、結局のところ職業をかえることになったのだと思う。

父は晩年になってやや自分の性格に適した職業についた時代があったが、そのときは家族の者から見ても、実に生き生きしていた。それは私が高校から大学在学当時にかけての年ごろであった。この体験から、私は職業を転々とかえた人、あるいはかえる人を簡単に責めてはならないという実感を持つに至っている。

今の世に父が生まれたのであったならば、初めから自分に適した職業を見つけることができたであろう。われわれの間にも適性を発見することがなく、なんとはなしに世間の評判だとか、あるいは母親だとか周囲の者だとかにすすめられて、心にもない職業についている人がたくさんいると思うが、その人たちはかなり深いところで機能快を阻害されているであろう。そして憂欝な職場の日々を送ったり、転職ばかりなどということをやっているのではないであろうか。

その人本来の機能、つまり自分の才能、適性などがうまく運転していないとおちつかなくなるということは、女性の場合は生理的な面からも考察する必要があるように思う。たとえば女性が妊娠可能期から妊娠できなくなる年ごろに至る間、数人ないし十人近くの子供を生むとすれば、それは女性としての肉体的機能をフルに回転させているということであって、ほかのことに気を散らす暇がほとんどない。それなりに充実した感じ、あるいは特に生きがいなどということを意識する必要のない人生を送ることができるであろう。

たまたま上坂冬子さんの『私ひとりのウーマン・リブ』という本を読んで知ったことだが、上坂さんのお母さんは十人の子供を産まれたそうである。あるときお母さんに生きがいについて聞いてみたら、「自分は夜中、子供に起こされないで寝られたらなアと思うことぐらいしかなかった」という趣旨のことを言われたそうである。

はたから見ると「そんな生活……」と思う人もいるかもしれないが、生きがいなどということを考える必要がないということは、実に充実した人生と考えられる。この妊娠が自由にできなくなったこと、これが近代の女性を根本的におちつかせなくしている最大の理由の一つであろう。

多少品の悪い例であるが、これは私がしかるべき権威から聞いた語である。たいへん説得力のある話であり、ほかにも引用したことであるが、ここでも引用するのが適当だと思う。それは、女性でオルガスムスを経験できない人は男性遍歴がやりやすいということである。

女性としてほんとうのオルガスムスを得ると、その後二、三日、長い場合は一週間、十日と余韻が残り、ほかの男性に注意を向けるとか、おちつかなくて男性遍歴をやるとかいうことはほとんどないものだそうである。しかし、そういうことを本からの知識その他で知っておりながら、自分にはそういうものがないとなると、なんとなくおちつかなくなって、いわゆる尻軽女となり、次から次と男を求めていく。

「こんどの男は与えてくれるんじゃないかしら」と思って、いちいち意識するかどうかは知らないが、男性遍歴をやるのだというのである。そういう見方からすると、男性遍歴の華麗なる女性というのはたいへんかわいそうな女性であるということになる。

また逆に、多くの男性を職業上とらなくてはならない売春婦には、オルガスムスの体験が欠けるということはしばしば専門家によって指摘されるところである。前にもふれたように、山崎朋子さんの『サンダカン八番娼館』においても、登場する女性は一日ニケタぐらいの男性を客としてとったそうであるが、一生の間、一度も男をいいと思ったことがないと告白しているのである。

また一方、一夫一妻という制度は、女性側の機能が深いところでフルに回転していないと、もたないものなのかもしれない。また性的な満足感は別として、女性の体全体が何人かの子供に授乳し直接育てるようにできていることは確かであろう。たとえば女性の体はやわらかいうえに、おっぱいが出るという厳然たる事実がある。

これはたまたま私が経験したことであるが、いつかうちの男の子供に、いっしょに昼寝してやろうと言ったら、いやがるのである。そのとき、子供たちは「痛いからいやだ」と言った。私は特に筋肉を使う人問でもないのであるが、やはりゴツゴツしていて、母親に抱かれ慣れた子供にしてみれば痛くていやだったのだろうと思う。

それに反して、女性の体は子供にとってはきわめて快適な肉体、あるいは脂肪組織を持っていろようである、特に乳房は決定的である、

肉体的にオルガスムスがないこと、しかも一番根本的な創造力である妊娠回数が押さえられていること、それに授乳の機能を働かすことができないこと、などなどは近代女性を潜在的にいらいらさせている重大な要因であるに違いない。 (P93〜P102)


(私のコメント)
今日も国会は、柳沢厚生大臣の「女性は子供を産む機械」と言う失言をめぐって空転していますが、与野党の女性議員たちは厚生大臣の辞職を求めている。確かに失言には違いないが国会を空転させるほどの失言なのかとも思う。それよりも少子化対策が大切ならもっと国会審議に時間を費やして欲しいものだ。

異常なのは福島瑞穂議員や辻本清美議員などの国会の女性議員たちの反応ですが、女性の代表としての活動なのでしょう。しかしあまりにもヒステリックな反応は異常さを感じる。自分達が子供を産んでいないという後ろめたさがあるからなのでしょうか?

柳沢厚生大臣は少子化対策の担当大臣として、地方の講演であのような失言をしたのですが、その場で訂正をしているし謝罪もしている。にもかかわらず野党は今日の国会審議の拒否までしている。

女性議員たちは子供を産んでいない後ろめたさから「子供を産まなければ女性として欠陥人間」なのかと自民党の高市早苗議員は言っていましたが、女性でなければ子供は作れないのだから、高市議員のような女性ばかりになったら日本から子供がいなくなってしまう。これでは少子化問題も前に進まない。

少子化問題では様々な原因が考えられますが、女性の社会進出が進めば、結婚もしない、結婚しても子供は作らない女性が増えるのは当然だ。仕事と育児とが両立できないのははっきりしている。子供が少人数で大きくなればパート程度の仕事は出来るがフルタイムの仕事は難しい。

渡部昇一氏の「男は男らしく、女は女らしく」という本は反ジェンダーフリー運動の為に書かれた本ですが、女性解放運動なども本当に女性のためにプラスになっているのだろうか? このような問題では女性はなかなか本音は語れないから建前的な発言だけが一人歩きをしているような気がする。

多くの女性は大学などの高等教育を受ければ、それを生かすために就職して働くようになる。しかし仕事が一人前になる頃は30歳過ぎてしまい、結婚しても高齢出産で体力的に難しくなってしまう。東京などで働いている女性は皆このようなジレンマに立たされているのですが、30代40代になって男社会で対等に働いていくことは体力的にかなり厳しい事だ。

女性でしか子供を作れない以上、女性が子供を産まなくなれば国は滅んでしまう。経団連などは海外から外国人労働者を輸入すればいいとまで言う人もいる。こうなると本末転倒であり、やはり女性には二人程度の子供を産んでもらわないと日本は先細りになってしまう。その後ろめたさがあるから子供のいない女性議員たちはヒステリックに騒ぐのだ。

渡部昇一氏の意見は一昔前のアナクロ的な意見に聞こえるのですが、結婚しようがしまいが、子供を産もうが産むまいが本人の勝手であり、誰もそのことは責める人はいないだろう。東京などではキャリアウーマンとして一生独身の女性も沢山いる。だからいちいち柳沢大臣のような失言にヒステリックな反応を示すのは後ろめたさがあるからだろうが、しかし気にすべきではない。

私は少子化問題では楽観的であり、日本では明治維新の時は人口は3000万人でしたが昭和初期には6000万人になり、終戦後は1億2000万人と倍増してきた。人口を倍に増やすには30年もあれば十分であり、今まで二人産んでいた家庭が4人産めば簡単に人口は倍増する。

少子化問題で考えなければならない事は女性の生き方の問題であり、仕事をしたい人はすればいいし、結婚して子供を育てたい人はそうすればいい。二つの生き方の選択は自由であり、国としては子供が産めるような環境を整える事ですが、産婦人科医も少なくなっているが、何の対策も立てられていない。辻本議員や福島議員がつまらない事で騒いでないで国会審議で少子化問題を話し合って欲しいものだ。



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