株式日記と経済展望


NHK-BSドキュメンタリー「ディエンビエンフーの戦い」
アメリカはこの戦闘から何も学ばずベトナム戦争に突入した


2004年12月26日 日曜日

インドシナ戦争-ディエン・ビエン・フーの戦い コンバット・チャンネル

1884年から70年間にわたって続いてきたフランスのインドシナ支配は終末を迎えようとしていた。
その直接の原因となったこのディエン・ビエン・フーの戦いが、実はフランス軍の積極策から開始された事は皮肉であった。

北部ベトナム地区における戦闘において、ベトミン軍は次第に力をつけはじめており、1953年夏以来フランス軍は作戦の行き詰まりを感じていた。この状況を一挙に回復すべく、インドシナ派遣軍司令官ナヴァールは、ハノイの西450qのラオス国境に近いディエン・ビエン・フー(Dien・Bien・Hu)に大規模な攻
勢基地を造り出そうと考えたのである。当時ベトミン(越盟)軍は、ラオス経由で主として中国から物資の補給を受けていた。したがってディエン・ビエン・フーの位置はフランス側から見た場合、てきの補給路の真っ只中にあった。

もしここに強力な前進基地が確保できれば、フランス軍にとって

1) 敵の補給路を遮断し
2) まとまった敵兵力を、機動性の有利性を駆使して撃滅する。

という二つの大目的の達成に寄与するはずであった。この目的については、1968年の春、アメリカ海兵隊が駐留し、ベトナム戦争屈指の激戦となったケサン(Khe Sanh)基地の場合とまったく同様である。

フランス軍のディエン・ビエン・フー進攻作戦は、1953年11月20日に開始された。第一陣として降下部隊3個大隊約3,000名が同地に送り込まれたそして2日後には、1,200mの滑走路が整備され輸送機の発着が可能となる。

1ヶ月後にはこの基地の兵員は12,000名以上に膨れ上がり、10台の軽戦車と28門の105o砲も配置された。フランス軍は滑走路を中心とする3qの円内にフランス女性の名(フランソワ―ズ、ベアトリスなど)をつけた前哨基地を次々と構築し、敵の反撃に備えた。

一方、フランス軍のディエン・ビエン・フーへの進攻と拠点確保を知ったベトミン軍は、12月初旬からこの基地の奪回の準備にとりかかった。この戦いについては両軍とも持てる最新鋭の兵力を投入する事が決定していた。フランス軍の兵力は翌年の1月末には16,000名にまで増大した。この当時の在インドシナ・フランス正規軍(外人部隊12,000名を含む)の総兵力は75,000名であったから、この基地には全兵力25%が投入されたことになる。これに対しベトミン軍は、主たる正規軍3個師団を攻撃にまわし、近代的な輸送手段を欠いていたので、約4万の補給部隊を準備した。これらの部隊は、フランス軍の場合と異なり、必要となれば戦闘に参加する。したがって、この攻防戦の戦域における兵員数の比はフランス軍1に対しベトミン軍3〜3,5に達していたことになる。

2月に入ると、ベトミン軍は得意のゲリラ戦によりハノイ―ディエン・ビエン・フー間の地上ルートを遮断した。このため現地のフランス軍への補給はもっぱら空輸に頼らざるを得なくなった最もフランス軍はこのことを予想し、約100機の双発輸送機を用意しており、さらにアメリカ製の対地攻撃機約150機が出撃準備を終えていた。
さて、3個師団のベトミン軍は、3月の初めまでにディエン・ビエン・フーを囲む山岳に潜み、基地攻略の足場を固めた。そして3月13日、満を持していたベトミン軍は総攻撃を開始した。
同軍は3ヶ月を費やして見事に隠蔽された陣地を構築していたので、フランス側の砲兵も、また地上攻撃機もそれらを発見することは困難であった。フランス軍は105o砲28門の砲撃力に大きな期待をかけていたが、ベトミン側は中国から送られてきた同じ105o砲48門をそろえていた。また75o砲の数については、フランス軍40門に対しベトミン軍は80門に達していた。

フランス軍の優位は、ベトミン側が保有していない攻撃・爆撃機であった。これらは連日出撃し、1日10波以上の攻撃を行った。しかしベトミン軍は12,7o以上の対空砲を100門以上用意し戦闘終了までに62機のフランス機を撃墜している。戦局は初めからベトミン軍に有利であった。この主な理由は兵力の差である。平野における機動戦ならまだしも、限定された地域における攻防戦であれば戦闘の帰趨はそのまま兵力比によることになる。フランス軍の前哨基地は十数ヵ所存在したが、それらの陣地は1週間に1ヵ所の割合で陥落していった。もっとも両軍の距離がせばまるにつれ、攻撃側の姿がはっきりと現れてベトミン軍の損害も上昇し始めた。しかしベトミンぐんとしては、どうしても早急にディエン・ビエン・フーを陥落させる必要があった。

インドシナ問題を討議する9カ国(米、英、仏、ソ、中国、南ベトナム、北ベトナム、ラオス、カンボジア)参加のジュネーブ休戦会議の開幕が間近に迫っていたからである。
ここでフランス軍に大打撃を与えておけば、ジュネーブ会議がベトミン側に有利となることは誰の目にも明らかであった。

5月初めになると、ベトミン軍はディエン・ビエン・フーに存在する唯一本の滑走路に接近し、その使用を阻止することに成功する。したがってその後、フランス軍の補給手段は輸送機からの空中投下のみとなる。それから1週間後の5月7日、同地のフランス軍指揮官ド・カストリは生き残った将兵約1万と共に全面降伏する。2ヶ月にわたったこの攻防戦の結果、フランス軍の戦死者は2,300名、負傷者は5,000名に達した。一方、前述の理由により強引な攻撃を続けたベトミン軍の損害は公表されていないが、フランス軍の約3倍と見られている。アメリカ軍事筋の見積りとしては戦死8,000名、負傷15,000名である。
もっとも、降伏によりフランス軍の全将兵1万名が捕虜となったので、収支決算はベトミン側の間違いない勝利となった。これら1万名の捕虜のうち、帰国できたヨーロッパ人は約半数といわれている。

ベトミン首脳の予想どおり、ディエン・ビエン・フー陥落の翌日(5月8日)、ジュネーブ休戦会議が開催された。そして6月20日、フランスではインドシナ完全休戦を主唱するマンデス・フランスを首相とする内閣が誕生するのである。確かにディエン・ビエン・フーにおけるフランス軍の大敗は、フランスの東南アジアからの全面撤退の引き金となった。しかし、もしこのディエン・ビエン・フーの戦いがなかったとしても、フランスはかなり早い時期に撤退を結滞していたと思われる。

その理由は、全世界的な植民地時代の終わりと、フランス本国の国力の疲弊であった。1953年夏から翌年春までの間、ベトナムに空けるフランス軍とベトミン軍の戦闘が激しくなっているにもかかわらず、フランス本国は派遣軍に対し、何ひとつ援助を実施しなかった。フランス国民の大部分は本国から数千キロ離れた地域で発生している戦争に対し何の関心も示さなかったのである。

第2次大戦後のフランス政府はもはやベトナムという植民地に関し、運営の意志を放棄しており、わずかに軍部の一部だけが“勝手”に戦っていたにすぎない。それでもインドシナ戦争は、1946年以後の7年8ヶ月間に、フランス軍は87,800名、フランス軍についたベトナム軍85,200名、ベトミン軍約60万の犠牲者を生んでいる。また、フランスの戦費は当時の金額で117億ドルに達した。

このディエン・ビエン・フーの戦いはこれ以後のインドシナ戦争を学ぼうとする者に数々の教訓を残している。まずベトナム独立を目指す勢力は、必要とあらば

●ゲリラによる不正規戦だけではなく、正規軍同士の本格的な戦闘能力を保持していること。

●近代的な輸送手段は少ないが、それを補うだけの人海輸送手段を取りうること。
●中国、ソ連からの武器、物資の供給は充分に行われていること。
●またその補給路の完全な遮断は困難なこと。

などが挙げられた。

また現地軍を見殺しにしたフランス本国にかわってアメリカは在ベトナム・フランス軍に大量の軍事援助を行った。それらは1950〜54年の間に航空機130機、戦車800台、車輌15,000台、船舶舟艇300隻に達しており、その総援助額実に10億ドルを越えている。

同時にアメリカは、これらの援助とともに400名の軍事顧問団を派遣していた。しかしこれらの顧問団もフランスの失敗から教訓を学ぶことをしなかった。これがその後18年間にわたるアメリカのベトナム介入という悲劇の遠因にもなるのである。

NHK-BS 「世界を変えた56日間の戦い」

















































(私のコメント)
イラク戦争にあてつけるわけではないのでしょうが、NHK-BSで「ビエンディエンフーの戦い」のドキュメントを放送していましたが、対ゲリラ戦争でフランス軍が敗北したこの戦いは、イラクにおけるアメリカ軍基地の行く末を暗示している。当時のフランス軍もベトミン軍は大砲を持っていないという、甘い見通しで基地を建設しましたが、中国からの供与やフランスからの捕獲品の105ミリの大砲24門持っていた。

イラクにおいても砂漠の真ん中に米軍の基地を築いていますが、それはゲリラが大砲を持っていないという事が前提になっている。今は大砲でなくとも長距離の迫撃砲で間に合う。先日のモスルの米軍基地攻撃は自爆テロのようでしたが、隠し持った高性能爆薬で自爆テロを行われれば、どんなに厳重な防御体制をとっても難しいだろう。

当時のフランス軍部隊は、モロッコなどの植民地兵が多く、士気も低く、フランス兵や外人部隊しか頼りにならなかったようだ。補給も滑走路が砲撃にさらされてままならなくなり、孤立した陣地は次々と陥落していった。一番強固な陣地も塹壕やトンネルなどで攻められて最後は、日露戦争の旅順要塞のようにトンネルを掘って地下に爆薬を仕掛けて爆破した。

ビエンディエンフーの戦いは中国やソ連の支援があったから勝てたとも言えますが、地形などを利用して時間をかけて攻められれば、空からの空爆だけでは防ぎきれない。アメリカのダレス国防長官から原爆二発の供与の申し出がありましたが、フランス政府は断っている。使用すれば局面は打開できたかもしれませんが、フランス政府はアメリカ政府ほどバカではなかった。

アメリカ政府は核爆弾で脅せば日本のように降伏させることも出来ると思っていたのでしょうが、朝鮮戦争でも結局は使用することは出来なかった。使用すればソ連などの核の報復も戦争が拡大すれば予想されるから、アメリカも断念せざるを得なかったのだろう。

アメリカのテロとの戦いも、テロリストが核を所有するような事態になったら、アメリカはどのような事になるのだろうか。それを警戒してアメリカは今厳重な警備体制をしいていますが、テロリストがテロ国家の支援を受けて核爆弾を持ち込んだら防ぎきることは出来ないだろう。だからイラクでテロとの戦いを長引かせればそのような最悪の事態も想定しなければならないだろう。



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